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第二話 11 新榜礼  

  中二房。扉の上に墨書された文字を確かめて、ユニは清斎の踏み石に上がった。今日からここで暮らすのだ。一人部屋だから何も緊張することはないと思ったが、扉を開ける瞬間は、やはり胸が高鳴った。
 外はもう日が落ちていたので、中は薄暗い。部屋の隅には、書を収める棚と、身支度を整える鏡と、それから。

 ユニが視線を移そうとしたそのとき、部屋の反対側の隅に、ふっと灯りがともった。誰もいないと思っていたそこに、ぼうっと人影が浮かび上がり、彼女は肝を潰した。が、よくよく見るとその後姿には見覚えがあった。皺一つない白い道袍に、濃紺の快子、ぴんと伸びた背筋と、広い肩幅。
彼女は思わず声を上げた。

「イ・ソンジュン……!なんでここに?!」
「割り当てられたからだ」

文机に向かったまま、ソンジュンは振り返りもせずに泰然として答える。

「でっ、でも、老論が使うのは西斎だろ?ここは東斎だ」

ソンジュンは広げていた本を閉じて立ち上がると、ユニの正面に立って彼女を見下ろした。

「僕の部屋はここと決められた」
「だからっ!老論は西斎に」
「そんな原則はない」

まただ。原則原則って、この男の頭の中にはそれしかないのか。こっちはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに。

「ぼくはあんたと同室なんてまっぴらだ。それはそっちだって同じはずだろ」
「朝鮮の愚かな党派争いを批判したのはどこの誰だ?個人的な感情を理由に、自らの信念や原則を簡単に曲げるのか。正直言って、僕はそんな低俗な人間と、たとえ僅かな時間でも一緒にいるのはごめんだ」

かっ、とユニの頭に血が上った。この男は、学問だけじゃない。人を不愉快にさせることに関してもおそらく天才だ。

「全く同感だよ!だったら」
「だが僕は耐える」

ユニの言葉を遮り、ソンジュンは言った。

「学則を守るために、僕は耐える。だから、君も死ぬ気で耐えろ」

ユニは唇を噛み締め、ソンジュンを睨みつけた。
いつもいつも決して崩れることのない、その冷徹な顔が、落ち着き払った声が、腹立たしくて仕方ない。とりわけむかっ腹が立つのは、彼は間違ったことを言っていないという事実だ。ただの一つも。
 初めて会った小科試験のときからそうだった。苛烈で、いっそ暴力的でさえある、彼の正しさ。それは王さえも、結果的に屈服させた。何も言い返せないことがただ悔しくて、ユニはくるりとソンジュンに背を向け、入って来たばかりの中二房を出た。

 死ぬ気で耐えろ?本当に死にそうな目になどあったことのないお坊ちゃんが、何を偉そうに。

そのとき、数人の書吏がばたばたと清斎にやってきた。慌ただしい動きで、それぞれの部屋の入り口に灯る灯火を吹き消してゆく。消灯時間にはまだ早いはずだが、いったい何事だろう。
ぼんやり立っていると、その背中をいきなりどんと突き飛ばされた。勢い余ったユニはそのまま、縁側から転がるように前庭へと押し出されてしまった。
 どうやら、そんな目にあったのはユニだけではないようだった。見ると、色とりどりの派手な衣装に、鬼のような真っ赤なお面を被った男たちが、竹箒で儒生たちの尻を容赦なく叩き、清斎から追い出している。しかもそれだけでは飽きたらず、奇声を上げ、銅鑼を打ち鳴らし、儒生たちを明倫堂の方へと追い立てているのだ。
 哀れな新入生たちは、まるで狼に追われる羊の群れのごとく、皆一様に怯えた目をして走っている。ユニはたまたま近くに来たヘウォンを掴まえ、訊ねた。

「いったい何の騒ぎ?」
「知らないのか?新榜礼だ!」
「新榜礼?うわっ!」

 走ってくる集団にどんっ、と背中を押され、ユニの華奢な身体は植込みに吹っ飛ばされてしまった。と、周りの騒ぎを余所に、一人ゆっくりと歩いてくる人影が見えた。ソンジュンだ。
 周囲がどんな状況でも、彼が自分の歩調を変えることはないらしい。流石というか何というか。ユニが半ば呆れているうちに、松明が明々と燃える明倫堂前の中庭は戸惑い顔の新入生たちで一杯になっていた。その周囲を、上級生たちが一斉に取り囲む。

『いったいぜんたい、何をやらされるんだ?』互いの顔を見交わす新入生たちは、どの顔も無言でそう言っている。
と、その頭上で爆竹の破裂音が聞こえ、見上げた瞬間。彼らの頭上に、真っ白な粉が大量に降り注いだ。

「なんだこれ…うどん粉?」

 いつそんなことをする暇があったのやら、明倫堂の中庭には縄が張り巡らされ、そこに括りつけられた袋に大量のうどん粉が仕掛けられていたのだ。追い立てられた新入生たちは、その真下で、身を寄せ合うように一つ所に固まっていたものだからたまらない。皆一様に頭から粉を被ってしまい、酷い有様だった。
 ユニの隣にいたヘウォンは、粉をまともに吸い込んだらしく、苦しげに咳き込んでいる。ウタクの色眼鏡などは見事に粉まみれで、おそらく当の本人は突如として白く覆われた世界に何が起こったのかわからない状態なのだろう。眼鏡を外すことも忘れ、呆然としている。そんな彼らの様子を見、上級生たちが腹を抱えて笑う。

 だが新入生の中でただ一人、ソンジュンだけはうどん粉の洗礼を免れていた。最後に中庭へ入ってきた上に、新入生たちの集団から少し離れたところに立っていたせいだ。
お白粉をはたいたような顔で大騒ぎしている同級生たちを、彼は相も変わらずの無表情で眺めていた。

* * *

「今すぐやめさせるのです!新榜礼なんてただの新入り苛めじゃあありませんか!」

 夜更けの正録庁では、教材の準備に忙しい博士たちに一人、大司成が食ってかかっていた。

「今時あんな幼稚な真似をするとは、時代錯誤も甚だしい!」

 もっともらしいことを言ってはいるが、大司成の真意は誰が見ても明らかだった。
 新榜礼は、成均館に入学した新入生が、先輩儒生たちに初めて正式に挨拶をし、親睦を深める行事───というのは建前で、実際は先輩儒生たちが出す無理難題を、新入りがその晩のうちにこなさなければならないという、一種の通過儀礼だ。この難関を見事突破してこそ、初めて一人前の、成均館の儒生として認められるのである。
 だが反面、課題を解けなかった者には屈辱的な罰則が待っている。それは親の地位や権力、家門など一切考慮されない厳しいものだ。もちろん、左議政の息子イ・ソンジュンとて例外ではない。大司成が気を揉んでいるのはそこだった。

 チョン・ヤギョンは両手に抱えた書物を一つ一つ書架にしまいながら、大司成の言葉に深く頷いた。

「確かに、あの程度では手ぬるいかもしれませんな。私のときなどは、全身に牛の血を塗られたもんです」
「牛の血?」

 きらりと、大司成の目が輝いた。

「何をおっしゃるやら。牛の血など可愛いもんですよ。私の時は先輩が厠から桶一杯に汲んできた、小……あいや、とにかく、それを頭から浴びせかけられ、しかも何日も洗わせてもらえず……」
「なんと!」

チョン博士の目が驚きに見開かれ、大司成を見た。

「では大司成殿は、あの伝説の、成均館黄金期に在籍しておられたのですか?」
「そのとおり!まさしく我々の代が黄金期でした」

 大司成は得意げに言い、ワハハと笑ったが、にっこりと微笑むチョン博士にようやく本来の目的を思い出したらしい。急に真面目な顔に戻り、今度はユ博士を掴まえて、言った。

「ユ博士!成均館の風紀を正せるのは今や貴方だけです!即刻新榜礼を止めさせてください。何か問題でも起きたら……」
「問題とは、左議政の息子イ・ソンジュンが怪我でもしたらと、そういうことですか」
「もちろん、その通りです」

 なるほど、とユ博士は頷き、手にした書物の頁をめくりながら、きっぱりと言った。

「私は、やめさせるつもりはありません。新榜礼は成均館の伝統です。伝統は、守るためにある」
「まさに、おっしゃるとおり」

チョン博士が笑顔で同意し、二人の博士はそれぞれの持ち場へと戻っていく。残されたのは、この正録庁に味方は誰もいないと悟った大司成のみであった。

* * *

「それでは、始める!」

 カン・ムの号令とともに、鉦と太鼓が打ち鳴らされる。その怪しげな調子に合わせ、異様な面相の者たちが数名、ゆっくりとした足取りで明倫堂中庭に現れた。神とも妖かしともつかぬ仮面を被り、身にまとう麻の衣装は、葬式用のそれにごてごてと飾りをつけたものだ。

 そのうちの一人───おそらく掌議だ───が、正面にまるで祭壇のように設えられた席に座り、新入生たちをぐるりと見渡した。
例えば昼間、こんな格好の人間を見たとしたら、単にふざけているとしか思えなかっただろう。成均館の儒生ともあろう者がおかしな格好をして、と失笑すら覚えたかもしれない。だが夜の闇と、ゆらゆら蠢く松明の炎と、明倫堂を包む新入生たちのただならぬ緊張感が、彼らにまるで儀式に臨む巫俗(ムーダン)のような犯しがたい威厳を与えていた。
 彼らの中央に座す掌議は、さながら冥府の王デビョルワンといったところか。彼がただそこに黙って座っているだけで、ざわついていた新入生たちは次第に静まり返っていった。

 デビョルワンの横に番人のように立ち、男が言った。

「新入生たちよ、よく聞け。お前らは無能なくせに思い上がり、不相応にもこの学問の殿堂、成均館に入った。お前らがその傲慢さを悔い改め、まともな人間に生まれ変わりたいと真に願うなら、我らに美味なる供物を捧げよ」

 周囲を取り囲む上級生たちから、歓声が上がる。新入生たちは一斉に清斎に駆け戻り、捧げ物を手にまた明倫堂へと戻ってきた。真っ先に進み出たのはウタクだ。眼鏡に積もっていたうどん粉はあらかた拭いとられていたが、まだよく見えないのか、それとも緊張のためか、足元をふらつかせながら地面に跪いた。

「新入生、キム・ウタク、梅の実を餌に育った霊岩の牛肉を、先輩方に捧げます」
「合格!」

 番人は供物を受け取り、満足気に頷くと、デビョルワンの前に恭しく捧げた。次に進み出たのはヘウォンだ。

「私、ペ・ヘウォンは、王さえもその旨さに飛び起きるという、月出山のスイカを捧げます」

 ユニの番が来た。彼女が手にしているのは、母が作った蓬餅だ。霊岩だの月出山だの、名産地から取寄せたものとはとても比べられるものではない。少し気後れはしたが、ユニは胸にしっかりとそれを抱き、祭壇の前に跪いた。

「おやぁ?誰かと思えば、緑鬢紅顔じゃないか!」

 番人が、そう言って仮面をずり上げた。そこにあったのはイム・ビョンチュンのにやついた顔だった。

「新入生キム・ユンシク、ささやかな真心を捧げます」

 ユニの捧げた籠の中を覗き込んだビョンチュンは、途端にしかめっ面をして、言った。

「ふん。ささやかだという自覚はあるのか。無意識ならまだ許せるが、わかっててこんなつまらんものを俺たちに持ってくるとは、けしからん!」

 ビョンチュンが、ユニの手から籠を叩き落とした。籠から飛び出した草色の平べったい餅は、石畳の上に湿った音をたてて貼り付いた。
 呆然としてそれを眺めるユニに、ビョンチュンは吐き捨てるように言った。 

「さっさと戻れ!」

 膝の上で、道袍をぎゅっと握り締める。立ち上がったユニは、重い足を引き摺るようにして新入生の列に戻ろうとした。その背中を、フン、と鼻先で笑う声。ビョンチュンの嘲笑は、ユニの中で張り詰めていた何かを、ぷっつりと切った。
 
 踵を返し、再び、すたすたと祭壇の前に引き返す。ユニはその黒い瞳でビョンチュンを射るように見返して、言った。

「学問を学び、真理を追求するのが学士のはずです。尊経閣の書の中に、質素な食べ物なら粗末に扱って良いとの教えがありましたか?」
「何?」
「お答えください」

 ビョンチュンは一瞬、鼻白んだような顔をしたが、すぐに肩をそびやかした。

「もちろんだ。俺は学士だ。人が食える物なら、大事に扱うさ。だがな、これは食い物とは呼べん。」
「食べ物でないなら、何だと?」
「餌だ!犬や豚の餌だよ!お前は、我ら偉大なる先輩を犬や豚扱いするつもりか?」

 ユニは、地面に散らばった餅を見下ろした。自分が踏みつけにされるならまだ我慢もできる。だが今ビョンチュンが唾したのは母がユニのために、文字通りその身を削って用意してくれたものだった。それは母の髪であり、母の辛苦であり、母の想いだった。

 小さくなってしまった母の髷。襟元を整えてくれた、かさついた手。年齢にはそぐわない、その目元に刻まれた深い皺。
 いくら貧しいからといって、党派が違うからといって、母というひとを構成するそういう小さな一つ一つのものを、踏みにじり、賤しめる権利など誰にもない。
 身体が震える程の怒りと悔しさを、彼女は生まれて初めて感じた。溢れる涙を、どうしても堪えることができなかった。

「こんなもの!」

 餅を踏みつけようとしたビョンチュンの足元に、すっと伸びる手があった。散らばった餅を一つ一つ、丁寧に拾い上げ、籠の中に戻す。涙でぼやけた視界の中にユニが見たのは、ソンジュンの静かな横顔だった。
 祭壇に座る冥府の王が、仮面を外す。インスの鋭い視線が、ソンジュンに刺さった。

「何の真似だ」
「先輩のおっしゃる通りです。これは確かに食べ物ではない」

 それ見たことか、とビョンチュンが口元をひくつかせたのも束の間。

「これは、我々が将来いたわるべき民の、血と汗です。───食べてください」

 そう言って、餅を一つ手に取り、ビョンチュンの鼻先に差し出す。

「や、両班が、地べたに落ちた餅など食えるか!」

 ソンジュンは黙って、手にした餅を口に入れた。驚いたのはユニだけではない。ソンジュンの行動に、その場にいた者たちが皆一様に息を呑むのがわかった。

「両班の体面は捨てても、人としての道理は捨てはしません」

 そう言って、彼はビョンチュンの手に餅を握らせた。

「どうぞ。貴方はこれを食べるべきだ。犬や豚でないというなら」

 ビョンチュンは何も言い返せず、口を金魚のようにぱくぱくさせるばかりだ。祭壇を挟んで反対側に立っていたヨンハが、ついに声を上げて笑い出した。ひとしきり笑って、餅の入った籠をひょいと抱え上げる。「ほら」と言って、まずは近くにしゃがみこんでいたコボンの口に餅を押し込んだ。
 祭壇から降り、儒生たちの間を縫うように歩きながら、手にした餅を次々と齧らせていく。

「いいか?こいつは民の苦労の結晶だ。一口ずつ食べろよ。味見だけだぞ。美味すぎてハマっちゃっても困るからね」

 ヨンハはそう言って、自らも一口齧った。ちょっと意外そうに眉を上げると、ふんふんと頷いて、またぱくりと齧る。
 ソンジュンが、まるで宣言でもするかのように、言った。

「成均館は、我々が民のために学ぶ場です。そう思わない者を、我ら新入生は先輩とは認めません」

 ソンジュンの鋭い視線が、インスのそれとぶつかる。ちょうどその間に挟まれる形になったビョンチュンは真っ青になった。ソンジュンの宣言を合図に、新入生たちの目が、一斉に自分に注がれるのがわかったからだ。こうなるともう、食べない訳にはいかない。ビョンチュンが半ベソをかきながら餅に齧りつくのを、ユニは呆気に取られて見つめた。
 言葉の力は侮れない。特にソンジュンの言葉は。彼はその舌鋒によって、ユニとビョンチュンの立場を、見事にひっくり返してしまったのだ。
 
 インスが立ち上がり、ゆっくりとソンジュンに歩み寄る。

「成均館は、出仕の準備をし、世の秩序を学ぶ場だ。誰が強者で、誰が弱者か。弱者は強者に対しどうすべきか……その道理を学ぶ場なのだ。貴様にそれをしかと教えてやろう───今日この場でな」





*******************************************************************

あまるです。
台風来てますねー。皆さんとこは大丈夫ですか?

新榜礼のこの回、初見のときはユニが可哀想で見てられなかったんですが、改めて見てみるとですね、ソンジュンがかっちょえーのはまあ当然として(爆)ヨンハが実にいい顔してるんですワ。
ユニが引き返してきたときのちょっと心配そうな顔とか、ソンジュンがエラソーな弁舌かましてるときにうっすらと浮かべるホホエミとか。モーたまりません。意外な発見。




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2011/09/03 Sat. 08:45 [edit]

category: 第二話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第二話 12 最初の任務 

 赤い封筒が、そこにいる新入生全員に配られた。全て行き渡ったのを見てとると、掌議インスは言った。

「新入生は、そこに書かれた密命を遂行し、三更(午後11時から午前1時)までに戻れ。最も優秀な者には、掌議ハ・インスの名において褒美が与えられる。ただし、任務を遂行できなかった者は、服を脱がされ、泮水橋から突き落とされることとなるだろう」

 服を脱がされる?ユニは息が止まりそうになり、思わず襟元を手で抑えた。そんな彼女の反応を、離れたところに立っているヨンハが意味ありげな目つきでじっと見ていたことなど、もちろん彼女は知らない。

「さらに、出仕しても王命を遂行できぬ者とみなし、斎会にかけ退学を命ずる。これが、成均館の伝統だ。お前たち新入生と私には、成均館の伝統を守る義務がある。それを忘れるな」
 
 太鼓の合図と共に、新入生たちが一斉に伝香門を飛び出していく。だがソンジュンは相変わらずだ。脱兎の如く駆けてゆく同級生たちから次々と追い越されても、一向に気にする気配もなくただ歩いている。
 何を考えているのかわからない背中。だがユニは声を掛けた。そうしなければいけない理由があったからだ。

「三更までに戻らなきゃいけないんだろ。もっと急いだ方がいいんじゃないのか?」

 彼は黙ったままだ。ユニは構わず話しかける。

「ひょっとして密命をまだ解いてないとか?助けてくれる仲間とか、いないの?」

 ソンジュンがぴたりと立ちどまり、振り返った。

「何が言いたい」
「さっきはありがとう」

 すかさず、ユニは言った。

「掌議は兵曹判書の息子だから、力を持ってる。ぼくのせいで、とばっちりを受けるんじゃないかって、心配で」
「そのことなら、気にする必要はない。僕はただ原則を守っただけだ。人助けをしたつもりはない」

 用は済んだとばかり、また背中を向けて歩き出す。ユニは呆れて、はっ、と息を吐き出した。

「口を開けば原則原則って。あんなにお堅くちゃ、誰も近寄らない」

 ユニの呟きが聞こえたのか、ソンジュンが振り返って、言った。

「急いだ方がいいと言ってなかったか?成均館を追い出されたくなければ……」
「それって本当かな?」

 ユニがソンジュンに駆け寄って、尋ねる。

「密命を遂行できなかったら、王命にも関係なく、成均館を追い出されるって」
「何故そんなことを訊く?」

 ソンジュンの目が、すっと僅かに細くなってユニを見た。

「まさか、わざと失敗しようとか考えてるんじゃないだろうな?」
「そ、そんな、まさか」

 図星だった。さっきからユニは、なんとか身ぐるみ剥がされることなく退学になる方法はないかと、そればかり考えていたのだ。

「とにかく、先に行けよ。ぼくはゆっくり行くことにする。今夜は月もきれいだし」

ユニが笑顔で夜空を見上げると、ソンジュンがぼそりと言った。

「……青衿録から抹消されたら、きっとその月を恨むことになる」

 青衿録。国が記録する学生名簿だ。そこに記されているのは当然、弟ユンシクの名前である。ユニは冴え冴えと浮かぶ月から、ソンジュンの顔に視線を移した。

「青衿録から抹消?」
「退学になれば、青衿録からその名を削除される。キム・ユンシクの名で科挙を受けることはもちろん、出仕への道も永久に閉ざされる」

 ユニの顔が凍りついた。そんなことは、絶対にあってはならない。新榜礼の密命が、ユニにとって死んでも遂行しなければならない任務となってしまった。

「じゃ……じゃあ、ぼくは先に行くよ」

 強張った顔のまま、ソンジュンから離れ、歩き出す。その足は次第に速くなり、やがてユニは駈け出した。


* * *

「"呂布の愛する女人は、花王が守る。その女人の絹の下着に情を込めて来い"……」

 ユニは、密命の記された紙を矯めつ眇めつ眺めてみたが、それ以外に手がかりになりそうな文は何も書かれていなかった。

(呂布が愛した女人の名は貂蝉〈チョソン〉……花王は牡丹の別名。だとすると、牡丹……牡丹閣?そうか!)

 「牡丹閣の妓生、チョソンの絹の下着───!」

 頭の中の霧が、ようやく晴れた。だが指令の意味がわかった喜びは、一瞬にして消えた。牡丹閣のチョソンといえば、同じ女であるユニさえも知る、今をときめく名妓だ。その絵姿こそ世間に出回ってはいるものの、実際の彼女にはいくら金を積んでも会うことすら至難の業だという。いわんやその下着をや、だ。蓬莱の玉の枝を折って来いと言われるのと、たいして変わらない。
 
『おい、キム・ユンシク!僕らの名前に泥を塗るなよ』

 家を出るとき、そう言って背中を押してくれた弟の顔がよぎる。

 とにかく牡丹閣へ行ってみるしかない。後のことは、それから考えよう───。
 ユニは暗い気持ちで、雲従街へと足を向けた。

* * *

 新入生がいなくなった後の成均館では、彼らが納めた“貢物”を肴に、上級生たちの宴が開かれていた。
 今頃、新入りたちは密命を遂行するためにあちこち駆けずり回っていることだろう。彼らが苦労しているのを尻目に呑む酒はまた格別だ。新榜礼という伝統がこれまで絶えることなく受け継がれて来たのは、おそらくこのためであろうとヨンハは思う。

「それにしても、どうしてそこまでイ・ソンジュンを目の仇にするんだ?同じ老論だってのに」

 インスに酒をついでやりながら、ヨンハが尋ねる。

「だからだ。少論や南人なら、俺が出るまでもない。年寄りたちが勝手に潰してくれる」

 溜め息とも苦笑ともつかぬ息を吐いて、ヨンハは盃を手に取った。

「だから政治は嫌いなんだよね。酒がまずくなる」

 くい、と酒を呷ったヨンハの横顔を、インスがじっと見据える。

「何故チョソンにした?」

 そらきた、とヨンハは眉を上げた。我らが掌議殿は、ご執心の女が他の男の標的にされるのはお気に召さないらしい。たとえそれが新榜礼のお遊びでも。

「キム・ユンシクの服を確実に脱がすためだよ。何せ王も唸らせたあの緑鬢紅顔だ。並の妓生じゃ簡単に籠絡されちまう。だろ?」

 ヨンハは、酒が入ってふざけ合う儒生たちを見るともなしに見遣って、言った。

「チョソンが男に心を許したことがあるか?心配は無用だよ。天下の掌議ハ・インスがどれだけ尽くしても、ガキの頃から妓楼に出入りしてるこのク・ヨンハにも、手すら握らせない誇り高き女───それがチョソンだ。想像するだけでワクワクするだろう?あの女みたいなキム・ユンシクが、今頃どんなザマか」

 彼の策略は抜かりない。キム・ユンシクが密命を完遂することは万に一つもあり得ないだろう。“彼”の正体が暴露される場は牡丹閣か、泮水橋か。いずれにしても、二つも用意されたこの危機を切り抜けるのはどんなに強運なヤツでも絶対に無理だ。
 ヨンハは盃に酒を満たしながら、くくっ、と喉の奥でいかにも楽しげに笑った。

* * *

「さあ、お帽子を脱いで」

 くすくす笑いながら、妓生の一人がユニの笠に手を伸ばす。その間にも、他の妓生たちが笑いさざめきながらユニににじり寄り、笠どころか身ぐるみはがそうという勢いで、襟元や帯に指を這わせてくる。
 ユニは怯えきった顔で、じりじりと後じさった。

「ぼ、ぼくはチョソンに会いにきたんだ。チョソンを呼んでくれ!」
「まあ。学士様ったら、寂しいですわ。女はチョソン姐さんだけで、私たちは役立たずだとおっしゃるの?」

 言いながら、するり、と帯紐を解いたのはエンエンだ。狙っていた獲物がやっと手に入ったとばかり、目がきらきらと輝いている。

「わあっ!何をする!」
「丁重におもてなししろと、ヨンハさまからいいつかっておりますの。学士様の胸元に口紅をつけることができたら、純金製の亀をくださるんですって」

 ソムソムが言うと、ユニを取り囲む妓生たちの間から、黄色い歓声が上がった。

「だっ、だから、ぼくはチョソンに……」
「では、100と10日ほどお待ちになってみて。そうしたら、後ろ姿くらいはご覧になれるかもしれませんわ」

 むせ返るような香の匂いにあてられて、目眩がした。上体を支えていた右手がうっかり滑った拍子に、足を引っ張られ、ユニの身体は仰向けにびたんと伸びてしまった。すかさず、6人もの妓生が我先にとのしかかってくる。

 それはユニが、同性に対し初めて恐怖を覚えた瞬間だった。




「成均館の学生が新榜礼の密命を受けて来たと?」

 兵曹判書が、チョソンの酌を受けながら愉快そうに笑った。

「ここに来たのなら、一晩お前と過ごせるかどうか賭けたのだろうな」

 酒器を置き、チョソンは口の端を僅かに上げた。たったそれだけの笑みにも、妖艶さが漂う。

「今夜、少なくとも一人の殿方は確実に、橋から落とされることになりますね」

 兵曹判書は笑いながら杯を空けると、料理の並べられた卓を脇へずらした。チョソンの胸元に手を伸ばし、上衣の紐を指に絡ませる。

「乳臭い若造など、男とは言えぬだろう」

 解けかかった上衣の紐をすっ、と手で押さえ、チョソンは微笑を浮かべたまま言った。

「大監。私が今ここにいる理由をお忘れでは?」
「家族に会いたくないのか?」

 兵曹判書の三白眼が、チョソンを舐めるように見上げた。

「お前は王こそ拒めても、この私を拒むことはできん」

 上衣の紐を乱暴に引っ張ることで、兵曹判書は彼の欲望を阻もうとするチョソンの手を払いのけた。はらりと上衣が落とされ、透き通るように白い肩があらわになる。冷え冷えとした美貌を微かに歪ませ、チョソンは兵曹判書から顔を背けた。

そのときである。いきなりバーンという大きな音とともに、部屋の扉が外れ、内側に倒れてきた。それと一緒に、転がるようにして室内になだれ込んできたのは、道袍を脱がされて単衣だけの姿の若者と、数人の妓生たち。

「おい、あれ、チョソンじゃないか?」
「一緒にいるのは、兵曹判書様か?」

 遮るものがなくなり、他の部屋からも丸見えになった室内。妓生たちの派手な騒ぎも手伝って、その一室は他の客の注目を一気に集めた。
 いいところを邪魔された上に、見世物状態の兵曹判書は怒り心頭である。

「き、貴様ぁ!いったいこれは、何の真似だ!」

 一瞬のうちに状況を理解したユニは、さっと身体を起こすと、そこに正座し、面を伏せた。その顔を覗き込んだ兵曹判書の表情が変わる。

「うん?お前は……」

 ユニは乱れた襟元を掻きあわせ、自分に向けられた視線を避けた。兵曹判書には、女の姿をしているときの顔を見られている。

(まさか───気付かれた?)

 ユニの背中を、冷や汗が伝った。




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2011/09/07 Wed. 08:04 [edit]

category: 第二話

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第三話 1 チョソン 

「申し訳ありません、大監。今宵は新榜礼で……」

 さっきまでの大騒ぎはどこへやら、エンエンが膝を折り、慎ましく言った。ソムソムも、ユニが立ち上がるのを助けてやりながら、にこやかに言う。

「成均館の学士様ですわ。悪ふざけが過ぎました。どうかお許しください」
「成均館の学士だと?」

 途端、兵曹判書が眉尻を釣り上げた。

「貴様!私を誰と心得るか!直ちに大司成に命じ、成均館を追い出してやるから、そう思え!」

 ユニは脱げた笠を手早く被り、乱れた着衣を整えると、平伏した。

「申し訳ございません。無礼を、どうかお許しください」

 そのまま立ち去ろうとして、ふと、目の端に肌もあらわな妓生を捉えた。そんな恥ずかしい格好を衆人に晒しているというのに、騒ぎ立てることもせず静かに座っている。だが大きく上下する胸元と、朱を掃いたような肌、そして背けた横顔が、彼女が今必死で恥辱に耐えていることを物語っていた。

 それはユニの、同じ女としての感情だったのかもしれない。とても放ってはおけなかった。
 手にしていた道袍を広げ、その妓生の肩にそっと掛けてやる。ふわりと肩を包まれ、彼女は驚いたようにユニを見上げた。色素の薄い、だが引き込まれるような瞳だ。同性のユニが見ても、目の覚めるような美貌だった。
 ユニは兵曹判書の前に再び手をつくと、言った。

「どなたかは存じませんが、失礼いたしました。この女人は、私が連れて行きます」
「何だと?」
「成均館の掌議は、兵曹判書の息子だとかで、父親の権力を笠に着て、無理難題を私たちに押し付けるのです。彼女を連れてこなければ、成均館から私を追い出すばかりか、立てなくなるまで袋叩きにしてやると脅されました」

 向かいの部屋の客たちから、忍び笑いが漏れる。それを背中に聞きながら、ユニは続けた。

「こうなった以上、成均館を追い出されるのはいたしかたありませんが、殴られるのは私も困るのです。この身体が動かないことには、新榜礼の悪習を国王陛下に訴えることができませんので」

 ユニの口から王の名が出た途端、兵曹判書はきまり悪げな咳払いをし、居心地悪そうに座りなおした。

「では、私はこれで失礼を」

 座ったままの妓生の肩を抱き、立たせてやる。彼女は素直にユニに従い、兵曹判書に背を向けた。

「おい、貴様!待て、これで済むと……」

 部屋を出ていく彼らを追いかけようと兵曹判書が立ち上がると、向かいの客が笑いを含んだ声で、言った。

「まあまあ、そう興奮なさらずに、大監。成均館の新榜礼は、多少のことは大目に見てやるのが昔からの習いですよ」
「そうですとも。ご子息の体面も、少しはお考えになっては?」
「さあ、そんなところにぼんやりお立ちにならずに。こちらへいらして、一杯お呑みになりませんか?」

 客の間から、どっと笑い声が上がる。彼らにとっては、これ以上ない程の余興だったに違いない。兵曹判書は悔し紛れに、手にした扇子を自分の腿に打ち付けた。

「あの小僧め、覚えていろ。だがしかしあの顔……確かに見覚えがあるのだが……はて、どこで会ったのだったか」



「姐さん!待って姐さん!」

 ぱたぱたと追い掛けてきたソムソムが、気遣わしげに眉を潜め、チョソンの顔を覗き込んだ。後から来たエンエンも、彼女を心配して声を掛ける。

「大丈夫ですか?」

 返事の代わりに柔らかく微笑んで、チョソンは傍らを歩く歳若い学士に向き直った。

「先ほどはお気遣いいただき、ありがとうございました。あの、お名前は何と……?」
「下衆野郎」
「え?」
「あんな男が官僚なんかやってるから、この国がダメになるんだ。あんな奴ら、まとめて漢江にぶちこんでやりたいよ、まったく!」

 綺麗な顔を紅潮させて、彼は本気で怒っていた。一瞬、呆気にとられたチョソンは、すぐにくすりと笑った。こんな爽やかな正義感を持った儒生が、まだ成均館にいたのかと嬉しくなったのだ。

「……ぼく、なんか今変なこと言った?」

 微笑むチョソンに、澄んだ目が尋ねる。まるで仔犬のような瞳だと、チョソンは思った。エンエンが含み笑いしながら、彼の腕をつつく。

「学士さまったら。折角チョソン姐さんに会えたのに、ここで夜を明かす気ですか?」
「えっ?チョソン?この人が……ほんとに?」

 長い睫毛をぱちぱちと瞬かせて、今度はびっくり顔だ。体面ばかりを気にする両班の男たちの中で、彼のような素直さは貴重だ。心の中をそのまま映して、くるくると変わるその表情に、チョソンはすっかり惹き込まれてしまった。

「ご存知なかったの?」
「いや、すごく綺麗なひとだから、もしかしてそうかなぁとは思ったんだけど、まさか本人だとは……。さっきは夢中で、何も考えてなかったよ」

 そう言って、照れたように笑う。美しさを褒められたことは何度もあるが、彼の口からするりと出た言葉は、あまりにも率直で、全く別のもののように聞こえた。長くこの世界にいると、自らの美貌をいっそ煩わしく感じることさえある。だがこのとき初めてチョソンは、親がくれた自分の容貌に心から感謝した。

 それでもきっと、まだ足りない。この人の前では、もっと美しく見える自分でありたい。

 チョソンはふわりと笑って、彼の手をとった。

「どうぞこちらへ。貴方様をこのままお返ししては、このチョソンの名がすたります」


* * *


 夜道を一人歩きながら、ソンジュンは密命の書を広げ、考え込んでいた。

「”花中君子は蓮の花なり。その中で最も満開の芙蓉花〈プヨンファ〉を折れ”」

花中君子は蓮。芙蓉花も蓮を指す言葉だ。では、最も満開の蓮とは何だ?
それまで読んだ、ありとあらゆる書物や詩歌の類を思い浮かべてみるが、わからない。指令が解けなければ遂行のしようがない。眉間に皺を寄せたまま立ち止まってしまった彼に、どんっ、と背後から抱きつく者がいた。

「坊ちゃん!」

 首を巡らすと、肩のあたりから丸い顔がひょっこりと覗いた。

「スンドルか。どうしてここにいる?」

 スンドルはソンジュンの手から密命をひったくるようにして取り上げ、言った。

「外で待ってたんですよ。新榜礼で坊ちゃんを退学になんかさせられませんからね。こんな紙と睨めっこしてたって、時間が過ぎていくだけですよ」
「いいから、それをよこせ」

 取り返そうとするが、スンドルはひょいとソンジュンの手を避け、密命の文字を目で追った。
 スンドルは下男には珍しく、ハングルだけでなく漢字も読める。自分の勉強の傍ら、ソンジュンが教えたのだ。彼らがまだ幼い頃、書物を読むソンジュンの手元をスンドルがいつも不思議そうに覗いていたからだが、その頃の癖がまだ抜けないらしい。儒学の教本以外で、坊ちゃんの見ているものなら何にでも興味を示すのは相変わらずだ。
 スンドルは ちちちち、と舌を鳴らして、言った。

「儒学は得意でしょうが、男女の道理に関しては坊ちゃんは素人でしょ。いいですか?普通、花ってのは女人を指すんです。蓮の花が満開ってことはつまり、今まさに年頃の娘がいるってことで───ああ、なるほど」

 にんまりと、スンドルの顔に笑みが広がる。

「“花を折る”ってのは要するにぃ……アレですよ。アレ」
「……?」

怪訝な顔のソンジュンに、スンドルはぐふふふ、と意味ありげに笑って、小さな目をぱちぱちさせた。


* * *


「無礼な!儒教の道徳を学ぶ者が、女人をたぶらかそうとするとは!───こんな感じでいいの?」

 兵曹判書の邸内、中庭に面した板の間。刺繍台の前できちんと両膝を揃えたヒョウンは、悪戯っぽい微笑を浮かべてビョンチュンに尋ねた。中庭に立つビョンチュンは やに下がった顔で手を叩いた。

「素晴らしい!もう完璧!お嬢様の演技は、そこらの芸人よりずっとお上手です!」
「あら……芸人ですか?」

 ビョンチュンの下手な褒め言葉に、ヒョウンがふと眉を顰める。

「あわわ、高貴なお嬢様を芸人などと比べるとは……この口め!この口め!」

 言いながら、自分の口を何度も引っ叩く。ヒョウンは口元に手をあて、くすくすと上品に笑った。

「お兄様のお友達には、面白い方がいらっしゃるのね」
「お友達?や、お友達だなんて、そんな……」
「おい、来るぞ!イ・ソンジュンだ!」

 見張り役のコボンが、慌てふためいて中庭に走り込んできた。ヒョウンは姿勢を正すと、ちらりとビョンチュンを見て、微笑んだ。
 ビョンチュンはとろけそうな顔で、もぞもぞと身体を捩った。

 その頃。兵曹判書宅の塀の影で、声を落とし、何事か言い交わす両班の若様と下男が、いた。

「───そんなはずはない」
「絶対ですって。芙蓉花ってのは、兵曹判書の娘のことですよ」
「ハ・インスが、自分の妹に僕を会わせるとは思えない。何か別の意味が隠されているはずだ」

 スンドルは痺れを切らしたように、塀の下に四つん這いになった。

「何をやってる」
「こんな夜更けに、いらっしゃいませって中に入れて貰えるはずないでしょ。塀を越えるんです!」

 なんてことを、と途端にたしなめ顔でスンドルを見下ろすソンジュン。

「これは、道に反する行為だ」

 四つん這いになったまま、スンドルは頭を振った。まったくうちの坊ちゃんときたら、生真面目にも程がある。道理に従って解決できるなら、それは密命とは言えないだろうに。

「だぁーもう、これじゃ夜が明けちまう!さあほら、乗って!早く!」


* * *


「まだ来ないの?もう真夜中よ!左議政の息子だからって何よ!来たらとっちめてやるんだから!」

 着ているものを次々と脱ぎながら、ヒョウンは喚き散らした。兄とその友人たちが企てた計略に、面白そうだと乗ってみたはいいが、標的となる相手が一向に現れないので、癇癪を起こしたのだ。

「でも、皆様外でお待ちに……」

 おどおどと口を開く下女のポドゥルに、ヒョウンが苛立ち紛れに蹴飛ばしたチマが飛ぶ。

「立たせとけばいいわ!いい薬よ!」

 下着姿になったヒョウンは、脇息にもたれかかると、文机に積んであった本を一冊抜き取り、ぱらぱらと捲った。

「まったく、現実の男ってどうしてああもブサイクなわけ?物語に出てくるようなステキな殿方は、いったいどこにいるのよ」

 言いながら、早くも物語の世界に浸り始めたのだろう。ごろんと寝転んで本格的に読む態勢になったヒョウンは、くふふふ、と楽しげに笑って、足でポドゥルをつついた。

「ちょっとだけ休むって伝えてきて」
「お嬢様……でも坊ちゃまが、絶対に板の間に座っていろって……」

 杏の実のような大きな目が、肩越しに きっとポドゥルを睨みつけた。

「早く行って!あいつらが私のこと捜しに来ちゃうでしょ!」
「でも……」

 なおも渋るポドゥルに、ヒョウンはバン、と本を閉じ、身体を起こした。

「私がこんな格好のまま、外に出てもいいの?」
「ええっ?そ、そんな、それはいけません!」
「だったら早く行きなさい!ほら!」

 根負けしたポドゥルが、あたふたと部屋を出ていく。ヒョウンはまた物語の本を開くと、くすくす笑いながら頁を捲った。





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2011/09/08 Thu. 02:12 [edit]

category: 第三話

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第三話 2 花王と蘭 

「イ・ソンジュンめ……いったい何をやってる!」

 手にした棍棒を苛々と地面に突き立てながら、ビョンチュン、コボン以下数名は、標的の到着を今か今かと待ち構えている。そこへ、おっかなびっくりやってきたのはヒョウンの下女、ポドゥルだった。

「あのぅ……お嬢様が、お疲れなので一刻ほど休むとおっしゃって」
「一刻?」

 ビョンチュンは一瞬頬を歪めたが、急に深刻な顔をして、ぶるっと身を震わせた。

「なら今のうちに厠に……」
「あ、じゃあ俺も」
「俺も!」

 皆余程我慢していたのか、我も我もと厠へ向かう。誰もいなくなったその中庭に、静かに足を踏み入れる者が一人。 イ・ソンジュンである。

 辺りの様子を伺いながら、ゆっくりとした足取りで中庭を横切った彼は、正面に建つ離れに掲げられた文字を見上げ、納得した。

(“芙蓉堂〈プヨンダン〉”……か。なるほど、この部屋の主が芙蓉花というわけか)

 スンドルの情報もなかなか侮れない。いったいどこで仕入れたのか知らないが、芙蓉花が兵曹判書の娘だという推理はどうやら当たっていたらしい。
 しかし、とソンジュンはまた考え込んだ。

 芙蓉花が何を意味するのかわかったところで、どうするというのか。あの密命の解釈がスンドルの言う通りだとしても、今を盛りの花を手折る気など、彼にはさらさら無い。第一、相手はあのハ・インスの妹だ。遊び慣れた妓生とはわけが違う。

 ソンジュンはようやく、事態を呑み込んだ。掌議にはそもそも、自分に密命を完遂させるつもりなど無いのだ。始めから絶対に出来ないとわかっている指令を出し、橋から突き落とした挙句成均館を追い出す───。
 新榜礼の密命など、単なる口実に過ぎない。

(これが強者と弱者の道理だと言いたいのか。成均館の掌議にしては、やることが幼稚過ぎる……)

 まあいい、とソンジュンは気を取り直した。こんな悪習は、王に上訴して即刻廃止すべきだ。そのためのきっかけくらいにはなるだろう。この程度の密命、つけ入る隙などいくらでもある。

 ソンジュンが密命の書を袂にしまい、引き返そうとしたそのとき。

「ポドゥル!そんなところでいつまでグズグズしてるのよ!」

 甲高い声とともに、芙蓉堂の扉が勢い良く開いた。思わず振り向いたソンジュンが見たのは、白い下着姿の女人───芙蓉花だ。

 相手もまさか、そこに見知らぬ男がいるとは思わなかったのだろう。扉を開けた姿勢のまま、ぽかんと口を開け、石のように動かない。
 先に我に返ったのは、ソンジュンだった。仮にも両班の令嬢だ。いつまでもそんなあられもない姿を晒させるわけにはいかなかった。
 彼は慌てて、芙蓉堂の縁側に身を乗り出し、扉を閉めた。床板に手をつき、ほーっ、と息を吐いたのも束の間。閉じたはずの扉が、またすぐに開いた。

「申し訳ない。僕は……」

 言いかけた唇に、そっと人差し指が押しあてられた。

「何もおっしゃらないで。───人が、来ます」


* * *

 ユニは、物珍しげに辺りを見回した。ここが、チョソンの私室だということはすぐにわかった。他の部屋で見たような派手な装飾は一切なく、調度品はどれも彼女の身につけている衣の色合いのように、落ち着いていて上品だ。
 壁際に掛けてある伽耶琴や、おそらく剣舞に使うのだろう、二振りの刀剣は手入れが行き届いていて、ユニは好感を持った。どんな職業であれ、その人が使う道具は、主の仕事に対する姿勢を物語ってくれる。自分が硯と筆を大事にするのと同じ気持ちを、きっと彼女も持っている。そう思うと、目の前の美女に急に親近感が湧いた。

 チョソンは優美な指先で酒を注ぐと、静かに微笑んで、言った。

「さ、お話しください。私は、何をすればよろしいのですか?」
「あ……それが、その……」

 鳶色の瞳にじっと見つめられ、ユニは言いよどんだ。いきなり下着をくれなんて、失礼にも程がある。逆の立場だったら、相手の正気を疑うだろう。
 どう言ったものかと考えあぐねていると、先に切り出された。

「私の絹の下着に、情を込めてこい……そんなところでは?」

 ユニが黙って頷くと、チョソンはくすりと笑った。

「では、後はただ、私にそう頼むだけです」

 衣擦れの音がした。気付くと、チョソンの目鼻立ちの整った顔が間近にあった。同性だというのに、胸がどきどきするのはどういうわけだろう。こんな風に男の格好ばかりしていると、心まで男に近づいていくのだろうか?

 チョソンは薄く紅をひいた口元をすぼめると、ふうっ、とユニの鼻先に息を吹きかけた。ユニの顔に残っていた粉が、白く舞った。

───ダメ。これ以上は、無理。

 ユニはすっくと立ち上がり、チョソンの姿を視界から追い出した。いくらなんでも、あっちの方まで男の真似なんてできるわけがない。思わず雰囲気に飲まれそうになった自分に驚きながら、ユニは言った。

「今日は、これで失礼する」
「……もしや私が、何か失礼でも?」
「いや、君のせいではない。結局こうなってしまっては、ぼくも兵曹判書と何も変わらない。どうか、気を悪くしないで欲しい。無礼なのは、ぼくの方なんだ」

 自分で言いながら、気付いた。同じ女であれば尚更、こんなことはするべきではない。彼女を貶めることは、自分自身を貶めるのと同じことだ。

「私の下着を持ち帰らなければ、新榜礼で失格になるのでしょう?」

 よろしいのですか?と問うチョソンを振り返り、眉をひそめたその顔に微笑みかけた。

「自分でなんとかするよ。あんな悪ふざけのために、女性を辱めることはできない。───男として」

 立ち去ろうと背を向けたユニに、チョソンは言った。

「では私は、貴方様のそのお心をいただきます。貴方様は、私の下着だけをお持ちください」

 傍らの戸棚から、きれいに折り畳んだ下着を取り出す。床に置いたそれを、まるで高貴な人への献上品のように両手を添え、慎ましく差し出しながら、彼女は言った。

「これは、心を寄せた御方に差し上げる私の気持ちです」

 胸を突かれた。ユニは、チョソンの正面に座ると、神妙な面持ちでその下着を広げた。薄桃色の地に、牡丹の花の刺繍。美しいが、下着であることに変わりはない。こんなものを男たちの目に晒される恥ずかしさは、ユニには痛いほどわかる。だがそれを、彼女は自分にくれるというのだ。
 ユニは、傍らにあった硯を引き寄せ、筆をとった。

「これは、恥ずべきものではない。今夜の思い出として、大切にしよう」

 手早く筆を滑らせ、ユニはそこに一つの絵を描き上げた。丁度、百花の王である牡丹を、密やかに咲く蘭が見上げる格好である。咲く季節も春と秋で反対なら、ふたつの花の佇まいも全く逆だ。艶やかに咲き誇る牡丹に対し、剣のように鋭く空(くう)を刺す葉の間から、そっと覗く小さな蘭の花。
 現実には在り得ない構図だが、何故かユニは、この場に最もふさわしい絵だと思えた。

 絹の下着は、たちまちのうちに一枚の画布へと姿を変えた。チョソンは何のてらいもない満面の笑みを浮かべ、ユニを見つめた。それまでの妖艶さが嘘のような、まるで少女のような笑顔だ。ユニはそんな彼女を、今夜見た中で一番美しいと思った。

「では私は、お礼に詩を詠みます」

 ユニの手からそっと筆を受け取って、彼女はもう一度、微笑んだ。

* * *

 厠から戻ってきたビョンチュンは、苛々と身体を揺すりながら辺りを見回した。

「イ・ソンジュンはどこをほっつき歩いてるんだ?近くに来てたってのはほんとに確かか?」
「間違いないって。いるだけで周りが華やぐほどの男前なんて、そうはいないだろ」

 いひひ、と不揃いの歯を剥き出して、コボンが笑う。

「じゃなぜ来ない?!ずっとここで待って……って、しまった!」

 ビョンチュンは さっ、と顔色を変え、慌てふためいて芙蓉堂へと走りだした。

 ヒョウンが私室として使っている芙蓉堂にはまだ、障子越しに淡い光が漏れていた。その扉に、笠を被った男の影が、すっとよぎる。

「あいつめぇ!お嬢様!今、ビョンチュンが助けに参ります!」

 勢い良く扉を開け、ビョンチュンが部屋に押し入った。がそこには、下着姿のヒョウンが驚いた顔で見上げるだけで、他には誰もいなかった。

「な、何をするんですか!」

 夜具で身を隠すようにして、ヒョウンが叫ぶ。ビョンチュンは慌てて顔を背けながら、もごもごと口を動かした。

「それが……も、もしやこちらに……」
「なんて破廉恥な!いい方だと思っていたのに、貴方にはがっかりです!」

 飛んできた枕が、まともにビョンチュンの顔に命中する。

「ご、誤解です、お嬢様!」
「言い訳は結構!ポドゥル、何してるの!」
「は、はいっ!」

 傍らで呆然としていたポドゥルが、やっと我に返り、扉を閉める。
 ビョンチュンは眉尻の下がった情けない顔で、言った。

「確かに奴が部屋にいるのを見たんだ!」

「お前が見たのは、お嬢様の下着だろ」とコボンがにたにた笑いを浮かべて言うと、ポドゥルが ひいっ!と顔を引き攣らせた。

「違うって!あそこに、男の影が映ってたんだって!」
「今日のことは全部お兄様に報告しますからね!」

 まさにビョンチュンが指差した扉の向こうから、ダメ押しのようなヒョウンの声が聞こえてきた。ビョンチュンはごほん、と咳払いをし、急に真面目くさった声を作って、言った。

「で、ではお嬢様、我々は掌議の命令どおりこれで引き上げます」
「私、コボンはお嬢様の下着姿など断じて見ておりませんのでご安心を!」
「もう、いいから早く行ってください!」

 ポドゥルが、いい加減にしてくれとでも言いたげに男たちの背中を押す。
 彼らが去ると、屋敷は急に静かになった。

 芙蓉堂の室内で、息を殺して外の様子を伺っていたヒョウンは、近くに誰もいなくなったことを悟ると、身支度を整え、立ち上がって奥の屏風を畳んだ。
 その影から現れたのは、ソンジュンのすらりとした長身だった。

(なんてステキな人なの……)

 凛々しい眉に、涼やかな瞳。すっと通った鼻筋と、怜悧な頬。そのどれもが、これ以上ないくらいの理想的な配置で、彼の顔を創り出している。先程見たビョンチュンなど、もはや同じ生き物とは思えない。顔の造作はもちろんだが、その大きさなんて、目の前の彼に比べれば二倍はありそうだった。
 
 思わず ぼうっとしてしまったヒョウンに、彼は言った。

「無礼をお許しください」

 顔のいい男は声もいいらしい。少し掠れ気味の、低い声。だが微かに鼻にかかってもいて、それがたまらない甘さをヒョウンの耳に残した。
 腰のあたりから力が抜け、倒れそうになるのをどうにか堪えて、ヒョウンは言った。

「私の方こそ、失礼をお許しください。貴方に、相応しくないことをさせてしまいました。でも、あの者たちにはどうしても引き渡したくなかったのです。おそらくあの者たちは、貴方がここに忍び込んだことを口実に、よってたかって貴方に乱暴を働くつもりだったのでしょう。いくら新榜礼でも、度が過ぎます」

 途中まで自分もしっかりそれに加担していたことは、この際棚に上げる。だが不思議なもので、言っているうちに、本当にこんな計画を企てた兄やビョンチュンに腹が立ってきた。もちろん、全うな正義感からではなく、
『あたしの若様〈トリョンニム〉に、なんてことを!』という、所有格がついたことによる単純な怒りだったが。

「どうか、今夜の私はお忘れください。私も、今日の貴方のことは忘れることにいたします」

 当然、嘘だ。忘れるなんて冗談じゃない。今後、彼女が読む物語に登場する美しい貴公子の顔は、全て彼の顔にすげ替えられることが決定している。ヒョウンの頭の中で、イ・ソンジュンがすることになるあんなことやこんなことを想像し、彼女は高鳴る胸を抑えることができなかった。

 そっと見上げてみる。と、彼は戸惑ったような表情を浮かべ、視線を逸らした。きっと照れているのだと彼女は解釈した。凛々しいだけでなく、なんて可愛いんだろう。
 羽ばたき始めたヒョウンの妄想の翼は、もはや留まることを知らなかった。

* * *

「家の私兵は兵曹の役人より優秀です。不慣れな道でしょうから、私が出口までご案内します」

 なんとなく騒がしくなってきた屋敷の様子に、ヒョウンは焦りを隠しきれない。あの山猿みたいな顔のビョンチュンとかいう男が、彼を見たと余計なことを吹聴したのかもしれない。
 こんな綺麗な顔に、傷をつけさせてなるものか。
 ヒョウンは人目を避け、建物の影に隠れつつソンジュンを促した。

「こちらです。お早く」

 その肩をそっと引き止め、彼は言った。

「失礼を働いた上、道案内まで……。今日のご恩は、忘れません」

 真摯な目が、ヒョウンを真っ直ぐに見ていた。心臓を貫かれるとはまさにこのことだ。文字の上でしか知らなかった感覚を、彼女が初めて実感として理解した瞬間だった。

「で、では……こちらに」

 動揺が、彼女の足をもつれさせた。倒れる、と思った身体が、逞しい腕にがっしりと抱えられる。
至近距離で見つめ合ったソンジュンの頬に、さっと赤みが差した。

「こんな……物語みたいなことが……ほんとにあるんですね……」

 助け起こされ、手を離した後も、まだ彼の腕の感触が腰のあたりに残っている。ヒョウンはもう夢見心地で、突如として目の前に現れた本物の貴公子から、目を離すことができなかった。





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2011/09/10 Sat. 17:21 [edit]

category: 第三話

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第三話 3 紅壁書 

 兵曹判書ハ・ウギュは輿に揺られながら、先程牡丹閣で見た儒生のことを考えていた。
 あの顔、やはりどこかで見た覚えがある。このままではどうにも気が済まない。
 彼は手を上げ、官軍の隊列を止めた。

「牡丹閣へ戻る」

 官軍隊長が は、と短く答え、合図する。輿持ちが向きを変えようとした、そのとき。

「大監、あれを!」

 官軍の列から、声が上がった。見ると、月が煌々と照らしだす夜空に、無数の紙片がひらひらと舞っている。
 官軍隊長が腰の刀剣を引き抜き、吠えた。

「紅壁書〈ホンビョクソ〉だ!追え!」


 立ち並ぶ民家の屋根を、鼠のような素早さで走り抜ける影があった。途切れた瓦屋根を飛び越えるほんの一瞬、濃紺の夜空を背景に月明かりがその輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。手には弓、背中には矢筒を背負い、全身黒ずくめだ。頭から被った頭巾で顔の殆どを隠しているので、その男を伺い知れる唯一のものは、隙間から見える鋭い眼光だけだった。

 男は雲従街の大通りまで来ると、背中の矢を引き抜き、弓を構えた。夜のしじまを切って放たれた矢は、空中で音を立てて弾け、真っ赤に染められた紙片をまき散らした。男が紅壁書と呼ばれる所以だ。

 赤い壁書は家路を急ぐ町民たちの上に降り注ぎ、否応なく彼等の注意を惹く。その赤い壁書を手にした者は皆、そこに書かれた見事な文章と共に、政治の腐敗や官僚たちの無能ぶり、国の窮状を知ることになるのだ。

「いたぞ!撃て!」

 兵曹判書の屋敷近くの屋根に、官軍隊長が敵の姿を発見した。その号令一下、いくつもの銃口が次々と紅壁書に向かい火を噴く。彼は慣れた動きで弾を掻い潜ると、再び、夜の帳の中に姿を消した。

「絶対に取り逃がすな!反対側から取り囲め!」

 兵曹から連絡を受けた兵士たちが合流し、あたり一帯は ますます騒然となった。



 同じ頃、ユニはといえば。
 チョソンから贈られた絹の下着を大事に胸に抱え、成均館への道を急いでいた。
 その足に、風に煽られた赤い紙がぴたりと張り付く。何気なく手に取り、そこに記された文面を見たユニは、ある単語に目を留め、呟いた。

「金縢之詞〈クムドゥンジサ〉……?」

 金縢之詞といえば、『書経』にある、大切に保管された文書を指す言葉だ。そんなものが、今の政治や民の困窮にどう関係するというのだろう。文体は素晴らしいが、意味がよく掴めない。
 首を傾げながら歩いているといきなり、その行く手を阻まれ、ユニは腰を抜かしそうになった。空から音もなく人が降ってきて、ユニの目の前に降り立ったのだ。

 はらりと、ユニの手から赤い壁書が滑り落ちる。登場の仕方にも驚いたが、問題はその人物の姿だった。黒装束に覆面。少なくとも、飲み屋帰りの一般市民がしている格好ではない。泥棒か、あるいは───

「追えーっ!」

 無数の足音とともに、響き渡る声。黒装束の男は地面を蹴ると、煙のようにユニの頭上に消えた。
 一つ向こうの角から、官軍がどっと走り出てくる。一人が立ち止まり、怪しい者を見なかったかと尋ねた。ユニはほとんど反射的に、見てない、と答えた。考えるより先に、口が動いてしまったのだ。幸い、官軍はそれ以上追求せず、来たときと同じように走り去っていった。

 通りの向こうに官軍の一団が見えなくなるのを確かめてから、ユニは改めて頭上を見上げた。そこには、いったいどうしたらそんなことができるのか、先程の黒装束の男が、民家の軒下に蜘蛛のように張り付いていた。

 男はさっと身体を折ってユニの前に降り立つと、軽く右手を挙げて、走り去っていった。瞬きするほどの出来事だった。男は、ユニに礼を言ったのだ。そう気付いたのは、通りから男の姿が消え、しばらく経ってからのことだった。




「奴を取り逃がしただと?数十人も雁首揃えて、曲者一人捕らえられんとは、貴様らそれでも官軍か?!」

 兵曹判書宅の中庭では、ハ・ウギュがこめかみに青筋を浮き上がらせ、部下を前に声を荒げていた。

「そ、それが、奴が泮村に入り込んだので、それ以上は追えず……申し訳ありません」

 うなだれていた官軍隊長がそれだけ言うと、兵曹判書は歩き回っていた足をぴたりと止めた。

「泮村?」

 成均館のある泮村は、いわば治外法権が認められている地区だ。いかな官軍といえど、王の許可なしにおいそれと踏み込める場所ではない。
 そこに紅壁書が逃げ込んだとなれば───。

兵曹判書は押し黙り、白髪混じりの眉を微かに上げた。


* * *

「───ということは、紅壁書は成均館に関係のある人物なのか?」

 煙草の葉を紙で器用に巻きながら、王正祖は淡々と言った。
 最近遠視の進んできた王は、細かい作業をするとき、職人に特別に作らせた眼鏡を掛ける。そこまでせずとも、煙草くらい内侍にでも命じて作らせればいいのに、と傍に控える領議政チェ・ジェゴンは思うのだが、こうして実際に王が煙草を巻く手元を見ていると、何も言えなくなってしまう。
 王の作業はそれほどに厳粛で、犯しがたい静けさに満ちていた。

「それは、まだわかりません。泮村は、官軍が立ち入ることのできぬ地域。単に、官軍を避けるために逃げ込んだとも考えられます」
「治外法権を利用し、隠れ場所にしている可能性もある、というのだな」

 さようにございます、と面を伏せる領議政に、王は深く頷き、脇に広げた赤い壁書に視線を移した。
 巻き終えた煙草を鼻の下に滑らせ、その香りを楽しむ。口元を微かに引き上げ、王は呟くように言った。

「金縢之詞を捜す紅壁書か。面白くなってきたものだ」

 一方、まだ宮殿の執務室に残っていた左議政イ・ジョンムは、紅壁書騒ぎのために自宅から引き返してきた兵曹判書の訪問を受けていた。

「金縢之詞ですと?あれは、確実に処理したはずだ。今更なぜそんなものを持ち出す?!」

 左議政の剣幕に、兵曹判書は僅かに身を引いた。その額には、じっとりと汗が浮いている。

「もちろんです!金縢之詞は存在しません。左議政様も、それはご存知のはず……!」

 イ・ジョンムは兵曹判書を見据え、怒気をはらんだ声で言った。

「何としても、王が動く前に紅壁書を捕らえるのだ。先に奴を仕留めねば、下手をすると我々老論が積み重ねてきた100年の苦労が水の泡となってしまう!」

 兵曹判書は冷や汗を手の甲で拭い、ひたすら低頭した。


* * *

 泮村に入り、泮水橋に差し掛かったときである。ユニは、背後からいきなり肩を掴まれたのに驚き、思わず足を滑らせて尻餅をついてしまった。
 呆れたような目が、彼女を見下ろす。

「驚き過ぎだろう。人を化け物みたいに」
「イ・ソンジュンか……。まったく、化け物のほうがまだましだよ」

 官軍に曲者を見てないと嘘をつき、逃したことがまだ尾を引いていたらしい。我ながら肝の小ささに情けなくなる。

「もうすぐ三更だというのに、随分余裕だな。さては、わざと退学になるつもりか?」

 言いながら、ソンジュンは座り込んでいるユニに手を差し伸べた。ちょっと意外に思いながら、ユニはその手を取り、立ち上がった。

「北村〈プクチョン〉からの帰り?じゃあ、密命は解けたんだね」

 ソンジュンはそれには答えず、伝香門のあたりを見遣って、言った。

「急いだ方がいい。でないと、君が後生大事に抱えているその戦利品が無駄になるぞ」

 ユニは はっとして、なるべくそうは見えないように小さく折り畳んだチョソンの下着に目を落とした。転んだ拍子にかかってしまった土を ぱたぱたと払ってから、既に先を歩いているソンジュンの背を急いで追った。

 

 明倫堂の前庭には、既に密命を完遂したらしい新入生たちがほぼ全員戻ってきていた。

「皆、密命は遂行したか?」

 ヨンハの呼びかけに答え、ウタクが進み出た。

「私、キム・ウタクは御井水〈オジョンス〉を入手いたしました」

 白い器に満たした水を、基壇に立つインスに得意げに差し出して一礼する。ヨンハが訊ねた。

「本当に国王陛下の飲む水を持ってきたのか?この夜中に?宮殿から?」
「裏山で汲んで参りました。祭祀の折り、王に捧げられる水です。これも、陛下が飲まれる水には違いない」

 ほう、とヨンハが感嘆の息を漏らした。

「素晴らしい。知恵を絞ったお前を、成均館の学生と認めよう」

 掌議の手から、成均館の儒生服が渡される。ウタクはそれを恭しく受け取り、退がっていった。

「次の者!」

 ヨンハの目が、ユニに注がれる。さっさと出ておいで。嫌なことは早くすませた方がいい。彼の視線は確実にそう語っていた。
 
 何も怖れることはない。先輩方が頭の中で考えたこととは多少違っていたかもしれないが、密命の書に書いてあったことはちゃんと果たした。いやむしろ、下着に情を込める、という言葉通りの意味でなら、まさに完璧だ。
 男女の情ではないにしろ、今夜、チョソンとの間には確かに、ある種の情が生まれた───そう、ユニは感じたのだ。
 
 類稀な美しさだけでなく、優れた才能と聡明さを持ち、一人、男たちの傲慢と闘っている。けれどその内側には、純粋に詩や絵画を愛する少女のような心があって。
 胸が痛かった。と同時に、愛おしくもなった。幼い頃、父の朗読する書を部屋の外で必死に書き写していた自分自身の姿と、何故かチョソンが重なったのだ。

「新入生キム・ユンシク」

 牡丹閣のチョソンの下着を、とはとても言いづらく、ユニは自分の名を言っただけで、言葉を飲み込んでしまった。密命を果たした証拠の品を、黙って差し出す。
 ヨンハがそれを受け取り、手の上に広げた。薄い笑みを浮かべていた彼の顔が、次第に真顔になる。

「これは……チョソンの下着か?」

 明らかに動揺した声で、ヨンハは訊ねた。ユニが頷く。

「嘘だろ。あれ、エンエンのじゃないのか?」
「ソムソムのかも」

 ひそひそと言い交わすビョンチュンとコボン。だがヨンハの判定はあくまで公正だった。

「5つの牡丹のしるし……牡丹閣でこれを身につけられるのは、チョソンだけだ」

 流石に、彼のこの言葉に異を唱える者は誰もいなかった。成均館で、誰よりもあちらの世界に通じる人間が、ユニの物証を本物だと断定したのだ。これ以上確かな保証はなかった。

 ビョンチュンが、ヨンハの手から奪い取るようにして下着を手に取り、広げた。そこに記された詩を、声に出して読む。

『短い夜は長い夜より劣ると誰が申しましょう
短くとも甘美な夜は
どんな長い逢瀬にも代えられぬもの───』

 か、甘美な夜、ともう一度呟いて、ビョンチュンはごくりと喉を鳴らした。
 インスが、鋭い目をユニに向けた。

「もう一度聞く、キム・ユンシク。お前があれを、チョソンの手から直接貰ったというのか?」

 声は静かだが、その目の奥には押し込めた暗い怒りが揺らめいている。それでもユニは臆することなく、そうです、と答えた。
 男女の交わりなどなくても、互いの心を尊重しさえすれば、情を交わすことはできる。こんな簡単なことが、男たちには何故わからないのか。
 当代一の名妓は決して、お高くとまった鼻持ちならない女などではなかった。ただ、人間らしくありたいと願っているだけだ。兵曹判書の妾になるより、成均館に入学することを選んだ、ユニと同じように。

 はっ、とヨンハが息を吐き出して、自嘲気味に笑った。

「今日の最優秀者は決まりだな。あのチョソンと一夜を共にしたキム・ユンシク!こいつ以外に誰がいる?」

 上級生たちの間から、一斉に同意の声が上がる。

「キム・ユンシクを、成均館の学生と認める」

 ユニの手に、濃紺の儒生服が渡された。その手触りを確かめながら、胸の奥から沸き上がる喜びを噛み締める。
 新榜礼を無事乗り切ったばかりか、最優秀者に選ばれたのだ。チョソンには、感謝してもしきれない。もう会って礼を言う機会のないことが、ただ残念だった。

 ユニが、新入生たちの列に戻る。並びからいくと、次は隣に立つソンジュンだ。

「次の者!」

 ヨンハの声に、ソンジュンが顔を上げる。彼は正面を見据え、言った。

「新入生イ・ソンジュン。……密命を、解けませんでした」






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2011/09/12 Mon. 02:49 [edit]

category: 第三話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

cm 8  tb 0 
2011-09
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