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第一話 1 貰冊房の少年 

朝鮮最高学府、成均館〈ソンギュンガン〉のお膝元、泮村〈パンチョン〉。
学生街とはいえ、国費で生活する両班〈ヤンバン〉の子弟たちが我が物顔に闊歩するそこは、昼日中から猥雑な活気と喧騒に溢れている。

青いチマを揺らして、酒場の卓子についた妓生の前で やに下がっているのは、濃紺の儒生服の男。
その脇の壁には、「科挙首席合格お任せあれ」という、怪しげな文面の張り紙が見える。

売り物の茶器を熱心に磨いている、派手な清国風の帽子を被った露天商。その傍らを、今、急いた足取りですり抜けていく若者がいた。

年の頃は十九か二十歳といったところか。若者───いや、彼の場合「少年」と言った方がふさわしいかもしれない。
長い睫毛に縁どられた大きな目はまだあどけなさを残し、生き生きとした光を宿している。が、通った鼻筋ときゅっと結んだ唇は、幼さとは無縁の、彼の知性と意志の強さを物語っており、色白の肌と相まって不思議な魅力を醸し出している。

つばの広い笠〈カツ〉と道袍〈トポ〉、という服装は確かに両班のものだが、少年の身にまとうそれは、およそ特権階級の格好とは言い難いものだった。
外出時、彼らが必ず被る笠には、瑠璃や珊瑚といった高価で美しい色の珠を数珠のように繋げ、こめかみのあたりから胸元まで長く垂らす飾りがついているのが常だったが、少年の被る粗末な笠には、そういった装飾は一切見当たらない。
浅葱色の道袍はもちろん、絹ではなく麻だ。おそらく何度も着ては洗い、を繰り返したせいだろう。すっかり色褪せて、そんな色になったと思わせる、微妙な色合いだった。

少年は麻縄で編んだ袋を背中でぴょんぴょん弾ませながら、人ごみの間を器用に掻き分けていく。その先には、彼の商売相手である貸本屋、貰冊房〈セチェクパン〉があった。


「なんだって?まだできてないってのか?」

狭苦しい貸本屋の室内に、ぴりぴりとした声が響き渡る。目当ての本を探していた客が一斉に眉をひそめ、その声の主である儒生を盗み見た。

「頼んでおいた注解本の筆写が仕上がってないとは、どういうことだ!」

みるみるうちに怒気に染まる成均館儒生、イム・ビョンチュンの顔とは対照的に、貰冊房の主人、ファンは涼しい顔だ。

「もうできてますよ」

のんびりと語尾を伸ばしながら、天秤測りをいじっている。ビョンチュンはファンの手元でゆらゆらと揺れていた天秤の皿を乱暴に叩き落すと、怒りを通り越しむしろ悲愴ですらある表情でファンに詰め寄った。

「ならどこにある?!」
「もうこちらに向かってるはずです。今頃は米屋のあたりじゃあないですかね」

蛙の面に何とやらとはこのことだ。ビョンチュンは頭を抱え、部屋を落ち着きなく歩き回った。

「期限までに課題を出さないと次の大科も受けられなくなっちまう…。おいヨリム、お前は平気なのか?何とか言ってくれよ!」

貰冊房の一階は吹き抜けになっており、そこを見下ろす格好で二階が設えられている。階下の一般客に容易に目に触れないよう、二階の奥まった書架に納められている書物は、当然のことながら所謂『春画』の類だ。
だが、その頁を丹念にめくる青年の顔つきは優雅そのもので、窓辺に佇むその姿は、手にしているのが詩集だといった方がむしろ似つかわしくさえある。

彼の名はク・ヨンハ。ヨリムというのは成均館での彼のあだ名だ。
その意味を真に知る者は、口にするのを多少躊躇う名なのだが、本人はこの通り名をいたって気に入っているらしく、自ら吹聴してはばからない。

ヨンハは開いていた本をぱたりと閉じると、階下のビョンチュンに向かい、やんわりと答えた。

「───平気じゃないさ」

白い羽根扇を妓生〈キーセン〉のような仕草で弄びながら、彼はゆっくりと階下に降りてきた。

「おい、ファン。あんまりじゃないか」

見上げるファンの髭面を、すう、と羽根扇で撫でる。

「上衣〈チョゴリ〉の紐を解いたら、下も脱がさないと」

いたぶるように顔に纏わりつく駝鳥の羽根に鼻をくすぐられ、ファンは今にもくしゃみしそうに顔を顰めている。

「こんなところでお預けとは───人が悪いにも程がある」

ファンに開いて見せた本の頁には、いざ事に及ばんとしている男女の、いやらしく絡みあう姿が描かれていた。
ヨンハは長身を屈め、ファンの耳元に口を寄せて囁いた。

「『玉丹春伝』の下巻はどこだ?」
「それも、一緒に届くはずです」

相変わらず飄々とした風情で、ファンが答える。納品が遅れているというのに、この落ち着き払った様子はどうだろう。依頼した写手との間に、余程の強い信頼関係があるらしい。

「来やがったらただじゃおかねぇ」

ビョンチュンがこれ見よがしに拳を握り締めたまさにその時、だった。

「やあ、やっと来ましたね、若様」

戸口に向かい、ファンが明るい声を上げた。つられてそちらを見たヨンハが、おや、と眉を上げる。
てっきり、万年科挙に落ち続けているうらぶれた中年男がやってくるとばかり思っていたら、貰冊房に息せき切って飛び込んできたのは、それとは真逆と言ってもいい、目を見張るほどの紅顔の美少年だったのだ。

虚を衝かれたのはビョンチュンも同じだったらしい。ぽかんと開けていた口を慌てて閉じてから、「あいつ?」とファンに訊ねた。

「2両追加だ」

背負っていた袋を手早く降ろしながら、少年が短く言った。

「先に本をよこせ」

麻縄の袋を奪い取ろうとしたビョンチュンの手を、少年がはっしと掴む。

「こんなに急がされたんだ。2両上乗せしろ。でなきゃ割が合わない」
「がめついガキめ」
「取引は信用第一だって、わかる年にはなってるさ」

怒り心頭のビョンチュンとは裏腹に、ヨンハは面白そうに口の端を上げ、少年を見ている。

「わかった。わかったから、早く出せ」

ビョンチュンにしてみれば背に腹は変えられぬ、といったところだろう。交渉は成立し、少年は機敏な動作で袋から本を取り出し始めた。

「さぁて、では脱がすとするかな」

お待ちかねの赤い表紙を目ざとく見つけたヨンハが、おもむろに本を取り上げ、ぱらぱらと頁をめくる。その背後で、ビョンチュンが焦った声を上げた。

「おい、俺の注解本がないぞ。どこへやった?!」

振り返ったヨンハが見たのは、ビョンチュンに胸ぐらを掴まれ、口元を歪めている少年の顔だった。

「この詐欺師!弁償しろ!首席合格の夢を返せ!」
「ちょっとちょっと、まあまあ」

貰冊房の主人は流石に、こういった場面には慣れている。すかさず二人の間に割って入り、興奮のあまり耳まで真っ赤になっているビョンチュンをなだめた。

「喧嘩なんかやめて、解決策を探しましょうよ」

素知らぬ風でまた手元の本に目を落としながら、ヨンハが静かに言った。

「仕方ないさ。無理に急がせたこっちが悪い」
「二刻だけくれ」

乱れた襟元を直しながら、少年がきっぱりと言った。

「こいつっ…! ふざけやがって!」

少年の言葉にビョンチュンはますますいきり立って、わめいた。

「成均館で講義も受けてないやつが、たった二刻で何が書けるっていうんだ!」

少年はビョンチュンを無視してさっさと机の前の椅子に腰掛けると、散らばった本を片付け、慣れた手つきで筆筒から筆を取り出した。書写用の本を広げ、硯の墨を細筆に含ませる。
白い紙に向かい、ふっと息をついてから、彼は一気に筆を走らせ始めた。




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2011/07/19 Tue. 03:06 [edit]

category: 第一話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第一話 2 危険な誘い 

その筆跡は、見事としか言いようがなかった。

少年の華奢な指先からさらさらと紡ぎだされる文字は、書の手本のように美しく緻密で、少しの乱れもない。
しかもそれが、驚くべき速さで白い頁を埋め尽くしていくものだから、ヨンハは手にしていた『玉丹春伝』の存在も忘れ、思わず少年の手元に見入ってしまっていた。
先刻、散々悪態をついていたビョンチュンまでもが、呆気に取られて少年を見つめている。
 
そしてきっかり二刻で、少年は注解本をあっさり書き上げてしまった。

「完了です」

貰冊房の主人、ファンはまるで自分の手柄のように、得意満面でそう言った。
ビョンチュンは少年から写本を奪い取ると、目の前でおこったことが信じられない、といった様子で、まだ墨の乾ききっていない頁をめくる。

「まさかこんな…暗記してたのか?お前が?」

横から覗き込んでいたヨンハが、すっ、とビョンチュンから本を取り上げ、少年の記した文字を無言のまま目で追う。

「ハングルも必要なら5文追加だ」
 
てきぱきと筆を片付けながら、少年は素っ気なく言った。

「ご苦労だったね。誤字脱字もない。完璧だ」

びっしりと並んだ墨文字に軽く指を這わせ、ヨンハは感嘆の吐息を漏らした。

「しかし───」

少年の表情を伺うように、その端正な顔を覗き込む。

「どう見ても女だな、これは」

一瞬、少年の動きがぴたりと止まった。被っていた笠をぎこちなく引っ張ったので、色白の顔の半分ほどがつばに隠れてしまった。

「ぼ、ぼくはれっきとした男だ。失礼なことを言うのはやめてもらいたい」
 
はっ、とヨンハが笑う。

「筆跡のことだよ」

ヨンハの口元にはからかうような笑みが浮かんでいるが、僅かに眇められた目はまるで吟味するかのようにじっと少年を見据えている。
その視線から逃れようとしてか、少年はあたふたと立ち上がり、ヨンハの手から注解本を奪い返した。

「代金を払ってくれ」

先刻までの悲壮感はどこへやら、安心していつもの調子を取り戻したらしいビョンチュンが、明らかに少年を見下した態度で顎をしゃくった。

「気前良く5文上乗せしてやる。ありがたく思えよ」
「3両追加だ」
「何?」

目を剥いたビョンチュンに構わず、少年は続けた。

「あんたたち、成均館の儒生だろ?授業料も食費も、民の税金でまかなわれてる身で、宿題を人任せにするんだ。なら、税金は民に返すべきだろ」

ぐい、と突き出された手のひらに、ビョンチュンは返す言葉もない。
がめついというか、抜け目がないというか。だが彼の言うことはいちいちもっともだ、とヨンハは苦笑した。


* * *


都にいくつかある学堂の中でも、ここ中部学堂は選りすぐりの良家の子弟たちが集まっていることで知られている。
とはいえ、季節は夏。うだるような暑さの中、喧しく鳴く蝉の声が、儒生たちのやる気を否応なく奪ってゆく。

自棄になって書物を破き、丸めて口に押し込むくらいならまだいい。大胆にも床に大の字になって高いびきをかいている者までいて、とても科挙の小科試験を間近に控えているとは思えない、だらけた空気が漂っていた。
 
だがそんな中でも、一人ぴんと背筋を伸ばし、静かに読書に耽る青年がいた。
頁をめくる速度は一定で、しなやかな指先の動きにはまるで無駄がない。汗ひとつかいていないその表情は、彼の周囲だけ、爽やかな涼風が吹いているかのようだ。

身なりは決して華美ではなく、素材のいいものを、着崩したり流行りの装飾をつけたりすることなくきちんと着ている。良家の、それもかなり身分の高い家の子息であることは一目で見てとれた。

といきなり、軽い衝撃とともに、彼の後頭部で ぐしゃりと音がした。黄色いドロリとした液体が、彼の被っている笠から肩へと滴り落ちる。何者かが投げた卵が、彼の頭に命中したのだ。
儒生の一人が、いそいそと彼の傍にやってくる。

「おいソンジュン、大丈夫か?ああ、こんなに汚れちまって。ほら、笠を脱げよ。俺が拭いてやるから。まったく、酷いことをするやつがいるな。いったい誰がこんなことをしたんだ?」

そう言って髪に触ろうとした儒生の手首を、彼───イ・ソンジュンが、さっと掴む。

「知りたいか?」

儒生の顔が強張った。掴まれた手を振り解こうとするが、ソンジュンの手はぴくりとも動かない。

「出来のいい奴の髪で作った筆を使えば、科挙に合格する───そう信じる愚かな輩だ」

ソンジュンは儒生の手を放るように離すと、席を立った。

「待て、待ってくれよ、なあ、イ・ソンジュン!」

儒生が、慌ててその後を追う。

「頼む、助けてくれ。同じ師匠の元で学んだ仲だろ?ほら、見てくれよこれ」

そう言って彼が開いた包みの中にあったのは、黒々とした一房の髪だった。

「朝鮮中の学堂から、秀才たちの髪の毛を集めたんだ。あとは、お前のを10本…いや、3本でいい。そうしたら、俺は絶対に合格できるんだ」

ソンジュンは無言で、髪の毛の束を手にとった。そのまま すっと頭上にかざし、掌を広げる。秀才たちの髪はまたたく間に風に舞い、散り散りに飛んでいってしまった。

「ああっ!俺の髪が!俺の希望がぁっ!」

儒生は半狂乱である。宙を舞う髪を捕まえようと、手足を虚しくばたばたさせた。

「なんてことするんだ!あれだけ集めるのに、俺がどれだけ努力したと思ってる!」
「それは努力とは言わない。他力本願と言うのが正しい」
 
あくまで無表情にそう言うソンジュンに、見かねた他の儒生が口を挟んだ。

「おい、イ・ソンジュン。少しは奴の気持ちもわかってやれよ。科挙を控えて不安になってるんだ。髪の毛の数本くらいくれてやったって、バチはあたらないだろ」
「安っぽい慰めや同情で、何が解決する?結局は、自分自身の問題だろう」

ソンジュンの言葉は正しい。が、それ故に冷たい。悔し涙を滲ませた儒生が、彼を見上げ、呟く。

「なんて奴だ!この……人でなし!」

ソンジュンは儒生を一瞥し、きっぱりと言った。

「僕を嫌うのは一向に構わない。だが僕を否定するのは───絶対に許さない」


* * *


「どうして科挙を受けないんです?若様の実力なら、首席合格は確実だってのに」

手にした報酬を几帳面に数える少年の傍らで、ファンはいかにも悔しげに力説する。

「試巻〈シグォン〉に名前さえ書けば、成均館なんか余裕で…」
「だから嫌なんだ」
※試巻……科挙の解答用紙
 少年は顔を上げ、その涼しげな眼差しを貰冊房の主人に向けた。

「宿題も人任せにするような連中と机を並べるより、1文でも稼いだ方がよっぽどマシだ」

ファンはあらぬ方向に視線を投げ、何やら含みのある声で言った。

「───1文で満足ですか?」
「え?」

天井からぶら下げた燈籠に頭をぶつけながら書棚の方へ回りこんできたファンは、少年の鼻先で節くれだった両手をぱっと広げた。

「今までの10倍、稼げる仕事がありますよ」

そう言うと、辺りを伺うようにせわしなく視線を動かし、少年に向かい手招きをした。
ファンが顎で示した先には、胸もあらわな妓生が悩ましげに身をくねらせた絵が描かれている。興味を惹かれた少年が立ち上がると、ファンは咳払いしながら妙に芝居がかった仕草で壁の妓生に体重を預けた。
すると、壁だとばかり思っていたそこが、軋んだ音をたてて開いた。少年は丸い目を更に見開いた。

「どうぞ」

促されるまま、隠し扉をくぐる。箱のような小さな部屋は、二人立つのがやっとの狭さだ。一歩足を踏み入れた途端、ぐらりと床が傾き、少年は思わず「わぁっ!」と怯えた声を上げた。

「まったく、男のくせに」

ファンは嘆かわしい、とでも言いたげに頭を振ると、腰の辺りにある滑車の把手を握り、手前にゆっくりと回し始めた。
がくん、とまたしても床が大きく揺れ、少年はその度に小さく悲鳴を上げる羽目になった。

「着きましたよ。中へどうぞ」

どうやらその狭苦しい箱は、地下へと繋がる昇降機というものらしかった。話には聞いたことがあるが乗るのは初めてだった少年は、すっかり肝を潰してしまった。だが、その程度はまだ序の口だったのだ。
 
入り口に掛けられた布の向こう側には、異様な光景が広がっていた。

薄暗い地下の一室に、背中を丸めた男達がひしめき合って座っている。何をしているのかと手元を見れば、米粒のような小さな文字をただひたすらに、黙々と、これまた手のひらほどの小さな紙に綿々と書き写しているのだ。

「学問さえできれば出世できるなんて腐った世の中は、ひっくり返すべきだ。違いますか?」

両手を広げ、そう自説をぶつファンの目には、この部屋は自らの理想を創りだす夢の工房に見えるのだろう。少年は鼻白んだ表情で傍らにあった豆本を手に取り、パラパラとめくった。手の中に握り込めるほどの小さな本の頁は、みっしりと隙間なく文字で埋め尽くされている。

「それで、金さえあれば出世できる世の中を作るから、前もって答案を書けと?」

まさしくその通り、とファンが深く頷く。

「断る」

少年の答えは明快だった。一瞬、聞き間違いかとファンが自分の耳を疑ったほどだ。すたすたと地上へ戻っていく少年を慌てて追いかけ、説得を試みる。

「成功すれば一人当たり30両、つまり一日で100両は稼げますぞ。一筆で3年分の稼ぎが手に入るんです!美味しい話でしょ?ねっ?」

「巨擘〈コビョク〉は違法だ。科挙の替え玉受験なんてぼくは…ふがっ!」
※巨擘……替え玉受験をする者のこと

言いかけた少年の口を、ファンが素早く手で塞ぐ。流石に後ろ暗いことをしているという自覚はあるらしい。人に聞かれなかったかとひとしきり辺りを伺ってから、ファンは声を潜めて言った。

「若様はそれでも男ですか?度胸がないからって、小さな仕事ばかりして」

こんな小心者のくせに、度胸が聞いて呆れる。少年は力任せにファンの手を引き剥がすと、吐き捨てるように言った。

「小さな仕事ばかりでも、2つだけはやらないと決めてる!」

人差し指を立て、耳を貸せ、と手振りで示す。ファンが耳を近づけると、少年は声を落とし、だがはっきりと告げた。

「他人の仕事を奪うことと、役人に取り入るために、偽りを書くこと。この2つだ。巨擘は、その両方をいっぺんにやることになる。そんなのは」

くい、と被っていた笠のつばを直して、彼は言った。

「男のすることじゃない」

見事に言い返されて、ファンは口をつぐんだ。その髭面に向かい、彼はにっこりと愛らしい笑みを浮かべた。



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2011/07/19 Tue. 12:31 [edit]

category: 第一話

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第一話 3 二つの花 

「───ほら、来たわよエンエン」

 雑貨屋の店先で、売り物の小物入れを眺めていた妓生が、隣の幾分歳若い妓生を小突いた。二人は、互いに目配せすると、何食わぬ顔でチマの裾を摘み、ぐっと前に引き寄せた。一見、歩き易くするためにそうしているようだが、実は丸い腰の線を殊更に強調するのが目的だ。
 この姿で、身をくねらせて歩く彼女たちの後ろ姿に、目を奪われない男はまずいないと言っていい。
 二人は、たった今貰冊房から出てきた色白の美少年に見せつけるように、腰を左右に揺らしながら、わざとゆっくり歩いていく。
 やがて、年かさの妓生が背中越しにすい、と扇を落とした。すぐ後ろを歩いていた少年が、その扇を拾う。

「あの、ちょっと」

 かかった、とにんまりした彼女は、隣のエンエンにひらひらと手で合図を送る。ぶすっとした彼女から銀の簪をもぎ取ると、すぐに商売用の妖艶な微笑を口元に張り付かせ、振り向いた。

「私をお呼びですか?学士様」
「1両でどうかな」

まっ、と彼女は恥じらうように手で口元を覆う。

「雲雨の情を交わす前に、花代の交渉をなさるおつもり?妓楼、牡丹閣のソムソムと申します。お話の続きは、床の中で……」

 耳元でそう囁くと、少年は戸惑ったように目をぱちぱちさせた。ソムソムのそれ以上の接近を阻むように、ぱっ、と拾った扇を広げる。

「この扇に書いてある詩文は、間違いだらけだ。書き直してあげるよ。1両でどう?」

 あんぐりと口を開けるソムソムの目の前に、エンエンが勝ち誇ったようにずい、と掌を突き出す。
 蝶の形をした銀の簪は、再び元の持ち主の手に戻った。
 少年は扇をぱしんと閉じると、ソムソムに返しながら、明るく言った。

「貰冊房に預けておいて。それじゃ」
「あ、あの……」

 さっさと立ち去った少年の後ろ姿を見送りながら、ソムソムが溜め息をつく。

「やっぱり私たちじゃだめね。チョソン姐さんじゃなくちゃ……」
「───私が、何ですって?」

 ふいに、何処からか声がした。見ると、反物屋の店先に下がった薄布の影から、はっと息を呑むほどの美女が顔を出した。いつも一緒にいて、見慣れているはずの自分たちでさえそうなのだから、初めて彼女を見るときの男たちの衝撃はいかばかりだろうと、ソムソムは思わずにはいられない。

「聞いてくださいチョソン姐さん!失敗続きで全然賭けになりません。あんな、春の日差しのようなお顔をなさってるのに、心は冬の風のように凍てついた御方……」

 チョソンは女笠に下げた薄布を軽く手で持ち上げ、去っていく少年の後ろ姿を目で追った。さして興味もなさそうにくるりときびすを返し、歩き出す。

 市場通りの人混みの中でも、彼女たちはひときわ目立っていた。
 斜に被った女笠と、その下に綺麗に結い上げられた豊かな飾り髪。歩くたびにその腰の動きに合わせ、ひらりひらりと揺れるチマは、薄い布を幾重にも重ねているせいで、花びらのように見える。
 一目で高級品とわかる上衣は繊細な刺繍が施され、チマとの色合わせも完璧だ。細く絞った袖は流行の最先端で、粋以外の何ものでもない。
 中でも、一行の真ん中でせわしないおしゃべりを聞くともなしに聞きながらゆったりと歩いているチョソンの美しさは、一歩も二歩も抜きん出ていた。華やかでありながら、どこか憂いを帯びた神秘的な眼差しに、すれ違う者は皆、男女を問わず目を奪われた。そして彼らは去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、一様にため息にも似た言葉を囁き交わすのだ。

 「おい今の、チョソンだろ?牡丹閣の…」
 「流石は当代一の名妓と謳われるだけはあるな。あの美貌を見たか?震えが走ったよ」

 口々に噂する人々のざわめきは、雑踏にも掻き消されることなく波のように広がり、当のチョソンの耳にも届く。
 だが彼女は慣れたものだ。そんな賞賛の言葉などとうに聞き飽きている。つんと取りすました表情を少しも崩すことなく、王妃のような優雅さで通りを歩いて行く。

「ねぇチョソン姐さん、男たちを夢中にさせる秘訣って何ですか?」

 小柄なエンエンが、すらりと背の高いチョソンにほとんど小走りするようにしてついていきながら訊ねた。
 視線を正面に据えたまま、チョソンは短く答える。

「与えないこと」

 訝しげに首を傾げるエンエンとソムソムに薄く微笑んでから、彼女は続けた。

「男の心が欲しいなら、与えてはだめよ。視線も、心も、助けも───」

 そこで初めて、チョソンはエンエンの目をじっと見つめ、言った。

「絶対に与えないこと」

 反対側を歩くソムソムは、チョソンの言葉に訳知り顔に深く頷いている。
 エンエンは気圧されたように小さな顎を引いたが、まだ腑に落ちない、と言った顔で首を捻った。


* * *
 
 街外れにある、古ぼけた粉挽き小屋。人気のないそこは静まり返っていて、外の水車が回る、ゴトンゴトンという音以外に聞こえてくるものはない。
 そこへ、するりと滑りこんできたのは先程の少年だ。彼は今しがた入ってきた扉に素早くカンヌキを掛けると、隅にある瓶の中を覗き込んだ。瓶には水が張られていて、少年の美しい顔をくっきりと映し出している。
 
彼は砂埃にまみれた頬を軽く手で払うと、積まれた薪の影に隠すようにして突っ込んであった風呂敷包みを引っ張り出した。解いた包みの中から彼が取り出したのは、粗末な薄紅色のチョゴリと、鈍色のチマだ。一見して女性用とわかるその一対を竹竿に無造作に掛けると、彼は笠を脱いだ。
 髷を縛っていた細紐をくるくると解き、額の網巾を外す。はらりと解けた黒髪が一瞬で肩に散らばり、艶やかな光を放った。軽く頭を振り、麻の道袍を脱ぐ。上衣を脱ぎ、単衣の合わせを開いたとき、その下から現れたのは彼───いや、彼女の二つの胸の膨らみを幾重にもきつく締め上げている、白いさらしだった。

 それはここで、もう幾度も繰り返されてきた作業なのだろう。彼女は少しも躊躇うことなく下衣の紐を解き、はらりと床に落とした。細くくびれた腰があらわになる。古びたチマを巻きつけ、チョゴリを羽織り、手早く髪を編んだ。
 彼女はもう一度、水瓶の中を覗き込んだ。秀でた額とあどけない大きな目、意志の強そうな口元は全く変わらないが、来たときとは性別の違う美少女が、そこには映っていた。


* * *


 瓶や食器の割れる派手な音が、小さな庭先に響いた。近所の人々が遠巻きに眺めているのを掻き分け、何事かと駆けつけたユニが見たのは、地面に散らばった米を必死に拾い集めている母の姿だった。

 猛烈な怒りが、ユニの胸にふつふつと湧き上がった。地べたにはいつくばり、痩せこけた背中を丸めて、僅かな米を掻き集めている母にも腹が立ったし、鍋から布団から、およそ役に立つとは思えない家財道具まで乱暴に庭先に投げ出しては、踏み付けにしている男たちにも腹が立った。何より、こんな状況に母と弟だけを置いていつまでも街でぐずぐずしていた自分自身に一番腹が立った。
 あの頭の悪そうな儒生に頼まれていた注解本を、街なかで失くしたりさえしなければ、貴重な時間を無駄にすることもなかったのに。

 母を立たせようとユニが近づくより先に、母は弾かれたように立ち上がった。

「病気の息子がいるんです!」 

 ユニの弟、ユンシクの部屋に通じる扉の前に立ちはだかり、押し入ろうとする男たちを母は身を呈して阻んだ。

「借りたお金は、必ず返します。どうか、もう少し猶予をいただけませんか?」
「どけ!」

見物人たちが一斉に悲鳴を上げた。男の一人に弾き飛ばされ、母の細い身体は呆気無く地面に転がった。

「お母様!」

駆け寄ったユニが、母を助け起こす。立ち上がるなり、ユニは借金取りの首領格の男をキッと睨みつけた。

「か弱い女人に向かって、なんて酷いことをするんです!」

男はユニに向かい、肉付きのいい肩をそびやかした。

「約束の期日までに借金を返さない方がよっぽど酷いだろう。忘れたのか?期限は今日だ。さっさと返してもらおうか」

母の顔に、絶望の色が浮かぶ。ユニは必死に食い下がった。

「だからって、家財道具まで奪おうっていうの?」

男はユニの全身を舐めるように眺め回すと、ぞっとするような笑みを浮かべ、言った。

「心配するな。家財道具は置いてってやる」

男の手が、ユニの顎をぐい、と掴んだ。痛みよりも嫌悪感で、彼女は顔を顰めた。

「もっと値打ちのあるものを見つけたからな」

ユニは渾身の力を込めて、男の腕を振り払った。娘を庇うように、母が男との間に割って入る。

「それはどういう意味ですか、旦那様。分別のない娘が言ったことです。どうかお怒りを鎮めて…」
「怒る必要などなかろう。元金100両に、利子10両を返して貰えば済むことだ。金で返すか、娘を売るか、二つに一つだ」

 ユニは、膝がガクガクと震えるのを感じた。それが恐怖のためなのか、怒りによるものなのか、もうわからない。身体がその場にくずおれてしまいそうだったが、両手の爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめることで、かろうじて耐えていた。

「言っておくが、夜逃げなんて考えんことだな。官軍や私兵が地の果てまで追いかけるぞ」

「返せば済むことでしょう。お金は絶対に返してみせるから、無礼な真似はやめて!」

ユニの剣幕にも、男は小馬鹿にしたように鼻で笑っただけだった。



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2011/07/19 Tue. 19:55 [edit]

category: 第一話

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第一話 4 巨擘 

ユニが部屋に食卓を運びこむと、横になっていたユンシクが身体を起こした。傍らでは母が針仕事をしている。
壁際に山と積まれた反物が仕事の多さを物語ってはいたが、どんなに母が夜なべをし、多くの仕事をこなしても、それがいくらにもならないことをユニは知っている。

「ゆっくり食べてね、ユンシク。お母様も、冷めないうちに食べて」

 ユニは努めて明るくそう言ったのだが、昼間のことがまだ尾を引いているのだろう、彼女を見つめる母と弟の目は沈んだままだ。

「姉さんは?」
「大丈夫。市場で食べてきたから、もう見るのもウンザリ」
「ユニや」
「仕事が山ほど入ったの。貰冊房で筆写をしたら、1年分を前払いでくれるって。ユンシクの薬代はこれでまかなえるわ」

 母にしゃべらせまいと言葉を継ぐのは、ユニなりの防衛本能だ。見通しは確かに暗い。家族三人、この先どうなるのかさっぱりわからない。でもだからといって、母の繰り言や自分に対する詫びの言葉など聞きたくはなかった。
 今だって必死で踏ん張っているのに、母にそんなことを聞かされたら、本当に心が折れてしまいそうで、怖かった。

「本当に?」
 
 ユンシクが少し安心したように、姉を見る。ユニは殊更笑顔で頷いた。だが母の表情は晴れない。

「だからお金の心配はしないで」

ユニは匙を取り、いつまでも食事に手をつけようとしない母にそれを握らせる。痩せて骨ばった手を握りしめ、彼女は力強く言った。

「私が、ちゃんと解決してみせるから」

 
 翌朝まだ早い時間に、貰冊房を訪れる男装のユニの姿があった。踏み台の上で書棚の整理をしていたファンは、この聡明で綺麗な若様がついに腹を括ったことを敏感に感じ取った。森の中、追い詰められた鹿が同じ目をしていたことを思い出したのだ。

「やってみるよ、巨擘。科挙の答案を、ぼくが書けばいいんだろ?」
「若様!」

ファンの顔が、たちまち喜色に染まる。

「10倍の稼ぎだろうが、100倍の稼ぎだろうが───とにかく、やってみる」


 官僚の登用試験である科挙は、3年に一度行われ、小科と、その上級試験である大科に分けられる。高級官僚を目指す者がまず最初に受験する小科は更に一次試験の初試と、二次試験の覆試があり、それぞれ生員試と進士試の二種目があった。

 その日の小科初試の試験会場は、成均館の敷地内にある丕闡堂前庭だった。孔子、孟子を祀る大成殿では、学生会長であるハ・インス掌議の元、儒生たちが一同に会し、拝礼行事が厳かに執り行なわれていた。

「先賢に申し上げます。これから成均館が新入生を迎えます。善良で賢明な後輩たちをお授けになり、国の安寧と民の平安をお守りください」

 深々と頭を下げ、祈りを捧げるインスに合わせ、儒生たちも一斉に頭を垂れた。
 
 一方、そんな厳粛な大成殿とは打って変わって、試験場である丕闡堂前の通りはお祭り騒ぎだった。何しろ、3年に一度しかやってこない一大行事。出世街道の通行手形を手に入れるため、朝鮮全土から受験生が集まってくるのだ。しかも彼ら一人一人に、答案を代筆する巨擘、清書担当の写手、場所取り役などがくっついて来ているため、群衆は実際の受験生の数の何倍にも膨れ上がっていた。
 ユニは人でごった返す通りを見ただけで腰が引けたが、こっそりついてきたファンに肩を叩かれ、勇気を振り絞った。

「芸はクマが演じ」
 
 ユニが低くつぶやく。すかさず、ファンがそれに答えた。

「金はワン殿(中国人の別称)が受け取る」

 雇い主を見分けるための秘密の暗号だ。ユニは不安を隠し切れず、ファンにもう一度確かめた。

「こう言えば、本当に分かる?」
「大丈夫ですってば。座席表と人相書きはお持ちで?」
 
 緊張した面持ちで、ユニはこくこくと頷く。

「依頼人を見つけて、実力さえ発揮すれば今日の仕事は終わり!簡単ですよ」
「ほんとに、大丈夫かな」
「やっぱり良心が咎めるとか、そういうことですか?」

 小さく頷くと、ファンは大げさなため息をついた。

「いいですか、若様。近頃の科挙の結果を左右するのは、学力より財力ですよ」

つまり貰冊房の主人の理想の世は確立しつつあるわけだ。いったい彼は今までどれだけの学士を、この道に引きずり込んできたのだろう。

「ホントにホントに、大丈夫なんだな?」
「もしバレたら、罰を受けるかってことですか?」

ファンは元から細い目を更に糸のように細めて、恐ろしいことを口にした。

「バレたら、良くて棒叩き100回、運が悪けりゃ、ムチ打ち200回───」

 ユニの全身から血の気が引いた。ファンはそんな彼女にちらりと視線を投げてから、商人特有の、あのやたらと愛想のいい笑顔で言った。

「というのは昔の話です。今の役人たちだって、同じ手を使って今の職にありついてるんですから、そうそう酷い目にはあいやしませんよ」

疎らにシミの浮いた手を口元にあて、ユニの耳に囁く。

「試験場の中は、想像を絶する世界ですよ」


 ファンの言葉は嘘ではなかった。試験場といえば、受験生たちが一糸乱れず端座する中を、いかめしい顔をした文官がゆっくりと監視するように歩いている、そんなしんとした緊張感漂う場所を想像していたのだが、とんでもない。想像とはかけ離れた騒ぎが、そこでは繰り広げられていた。
 
 場所取りの者たちが互いに譲らず、主人そっちのけで口汚く罵り合っているわ、試験官との人目もはばからぬ賄賂の受け渡しが行われているわ、合格祈願とか何とか、怪しげな口上でうろつく飴売りはいるわ…
 これでは、塀の向こうにある繁華街と少しも変わらないではないか。
 
 しばらく呆気に取られて目の前の光景を眺めていたユニだったが、却って落ち着いてきた。ここが雲従街の市場通りだと思えば、小さい頃から慣れた場所だ。臆することは何もない。
 
 ユニは袂から座席表を取り出し、雇い主の席を確認した。正面から数えて3番目、手前から9列目だ。
 見ると、該当の席に青い快子(ケジャ)を着た男が座っている。
 いた。あれがきっとワン殿だ。人相書きを広げた。絵を見る限りでは、そう年をとっているわけでもなさそうだ。
 
 その時、一陣の風が吹いた。
 
 試験場に、白い砂埃が舞い上がる。
 
 一人静かに墨を摺っていたワン殿が、砂粒を避けてユニの方に顔を向けた。風が治まり、閉じていたワン殿の眼瞼がゆっくりと開く。伏し目がちなその視線と、頬の怜悧な稜線に、ユニは一瞬、目を奪われた。
 
 もう一度、手元の人相書きに目を落とす。あまり似ているとも思えないが、人相書きなんてそんなものだ。ある程度の年齢と、顔の特徴さえわかれば、それでいい。

 ユニはこの仕事を8割方終わらせた気分で、ワン殿に接近を試みようとしていた。



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2011/07/20 Wed. 09:47 [edit]

category: 第一話

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第一話 5 出会い 

 場所は変わって。
 そこは、正録庁。成均館内の、いわば職員室である。講義も生活指導も、厳格なことで有名なユ・チャンイク博士が、きびきびと歩きながら書吏に指示を飛ばしている。

「答案すり替えはムチ打ち、本の盗み見は棒叩き。巨擘は今後、科挙の受験禁止。一人も逃すな。もし逃したら───」

 書吏のハム・チュンホは矢継ぎ早に繰り出される博士の指示を書き取るだけで精一杯だ。ぴたりと足を止め、振り返ったユ博士にあやうくぶつかりそうになり、慌てて顔を上げる。

「お前もムチ打ちだぞ」

 チュンホの顔が、たちまち泣き出さんばかりに歪んだ。まったくなんてことだろう。先月赴任してきたこのユ博士ときたらとんでもない原則主義者で、四角四面にしか物事を考えない。相手が儒生だろうが成均館の職員だろうが、規則を破る者は絶対に許さないのだ。
 受験資格の必要な大科はともかく、広く一般庶子にも門戸を開いている小科試験での不正行為は、もはや慣例となっている。それは、ここで長く働いていれば自然とわかる事実だった。不正行為を働いた者を一人残らず捕えたら、今受験生たちでひしめき合っている丕闡堂は、すっからかんになってしまうだろう。
 
「随分必死ですなぁ。お手柔らかに頼むよ」

 暗澹たる面持ちのチュンホの耳に、救世主の声が聞こえた───と思ったのだが。
 声の主であるもう一人の新任博士は、正録庁の奥で先輩書吏、コ・ジャンボクと差し向かいで賭け将棋に興じている最中だった。

「叩くだけでぇ~駒が捕まりますかな~」

 妙な節回しで歌うように言いながら、敵陣の駒を摘まみ上げる。やられた、と息を吐いたジャンボクの顔を見ながら、チュンホは首を捻った。今のは、ユ博士とジャンボク先輩、どっちに言ったんだろう?

ガシャン、と荒っぽい音が正録庁に響いた。怒り心頭のユ博士が、将棋盤を派手にひっくり返したのだ。

「神聖な試験場で賭け事とは、貴様は何者だ!」

ジャンボクがわざとらしく咳き込みながら、こそこそとその場から逃げ出した。残された白い鶴撃衣(ハッチャンイ)の男は、しばらくびっくりしたように目をしばたいていたが、おもむろに立ち上がった。

「本日付けで成均館に博士として配属されました。チョン・ヤギョンです」
「賄賂収受で左遷されただけのことはありますな。赴任初日に、しかも試験場で賭博とは。いったい何を考えておられる!」

 遠慮のないユ博士の物言いに、ヤギョンは頭を掻きながら苦笑いする。

「いや、試験場で受験生と役人が堂々と不正を働いているので、私もつい…」

 そんなことが理由になるか、と言いたげにユ博士は目尻をぴりりと震わせた。

「ここは成均館ですぞ、成均館!早く行かれよ。不正を働く輩を、一人残らず探しださねばならん!」

 やがて試験開始の太鼓の音が、成均館に響き渡った。



 イ・ソンジュンは試巻に下ろそうとしていた筆をふと止め、隣の受験生を見た。先ほどから妙な動きをしている、と気になっていたのだが、あろうことかその男がしきりといじくっていた鼻の穴から取り出したのは、小さく巻いた紙束だった。広げたそれを見なくてもわかる。おおかた、今回の試験の予想問題とその解答がびっしりと書かれているのだろう。
 
 不正を働いている者は彼だけではなかった。よくよく辺りを見渡すと、同じ紙束を筆の中に仕込んでいる者、袖の下、自分の腕に直接解答を書き込んでいる者と、よくもまあそんなに知恵が絞れるものだと感心するほど、ありとあらゆる方法で不正が行われていた。あまりに堂々とやっているので、流石に試験官の目にも止まる。だが試験官は不正を摘発するどころか、受験生から宝飾品を受け取っている始末だ。
 
 ソンジュンは早くも科挙を受けに来たことを後悔していた。父や親戚から何度急かされても受験に気乗りしなかったのは、合格する自信がなかったわけでも、ましてや出仕などせず遊んでいたかったわけでもない。こんな不正が堂々と行われ、そうやって役人となった者たちが大手を振って政事に携わっている宮廷というものに、彼は全く興味が持てなかったのだ。
 それまではまだ自分の力量に自信が無いから、とかなんとか殊勝な理由をつけて受験を拒んでいたものの、今年科挙を受けなければ親子の縁を切る、とまで父に言われては仕方がない。こんなところにいるのは本意ではなかったが、彼はついに観念して試験場の門をくぐったのだった。
 
 それにしても、と彼はふと疑問を感じた。これまで息子の考えには比較的寛容だった父が、今回に限って急にあんな断固とした意志を示したのはなぜだろう。
 父はまだ健康で、あの年齢にしてはむしろ矍しゃくとしている。隠居を考えるのは早過ぎるし…。

 ソンジュンは頭を振った。今は試験のことだけ考えろ。父に疑問をぶつけるのは、受かった後でいい。首席合格という名誉を持ち帰れば、理由くらいすんなり話してくれるだろう。

 気を取り直し、ソンジュンが再び筆を下ろそうとした、その時。まだ記名しかしていない試巻が、すい、と横にずらされた。見ると、いつの間にか彼のすぐ脇に、粗末な身なりをした小柄な少年が、膝を立てて座っていた。

「芸はクマが演じ」

 いきなり、少年はそう言った。意味不明だ。ソンジュンが怪訝そうに眉を顰めると、少年は少し苛立ったように、繰り返した。

「芸はクマが演じ!」
「───金は胡人が受け取る」

 ソンジュンが言うと、少年は「胡人?」と聞き返した。

「文語に置き換えるとは、なかなかやりますね」

 相手にしていられない。ソンジュンが試巻を取り返そうと引っ張ると、小さな手がはっしとそれを押さえ、「30両」と言った。

「もしかして初めてですか?」

 少年の表情に、微かな親しみのようなものが浮かんだ。

「ぼくも初めてなんです。念のため言っておきますが、この仕事は前払いと決まっています」

30両、とまた少年は繰り返し、笠を直すふりをして軽く腕を上げた。袂の中に入れた巻紙が数本、ちらりと見えた。

「3等、次席、首席。30両から50両まで、お好きに選んでください」
「50両」

答えると、少年はやった、と言わんばかりに嬉しそうな顔をした。わかり易い奴だ。
ソンジュンは指先で少年に軽く手招きした。耳を寄せてきた彼に向かい、氷の一言を浴びせる。

「巨擘を告発した者に出る報奨金だ。──50両」

 さっ、と少年の顔色が変わった。
 ソンジュンはもう我慢の限界だった。こんな試験、バカげているにも程がある。
 彼は正面の試験官に向かって手を挙げ、声を張り上げた。

「申し上げます!」





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2011/07/20 Wed. 23:54 [edit]

category: 第一話

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2017-08
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