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第九話 1 帰宅 

自室に戻ったソンジュンは、文机の前に座ると、片肘をついたままぴくりとも動かなくなった。
机の上にはもう本すら開いていない。目はただ一点を見つめてはいるものの、そこには何も映っていないようである。夕食に何か食べたいものはないかと訊きに来たスンドルは、敷居を跨ごうとした足を中途半端に浮かせていたが、結局、部屋に入ることはできなかった。いつもは無遠慮なスンドルさえも声を掛けるのを躊躇うほど、彼は深い物思いに沈んでいた。

貰冊房で、ファンから仕事の依頼を受けるユニもそれは同様だった。
「これが求婚書で、これが祭祀の祝詞で」と巻紙を次々と卓の上に積み重ねるファンが、時折聞いているのかと問いたげに、ユニの顔を覗きこむ。つい先刻、ここを飛び出していくまではいつもと変わりなかった若様が、今は肩を落とし、ぼんやりとあらぬ方向に視線を投げている。ファンは首を振り、腕に抱えた巻紙をまた一本、積み上げた。

「それからこれは恋文の代筆……おっと、うっかりしてた。これは若様はできないんでしたっけ」

白々しくそう言って巻紙を戻そうとしたファンを遮り、ユニはそれを手に取った。
真っ白な雁皮紙に、花模様の留紐。女が男に宛てて選んだものか。いや、あるいは逆かもしれない。
皮肉なものだとユニは思った。女でもあり、男でもある自分には、どちらであったにせよ書けないことはないだろう。ただ、拒んでいただけだ。男ではなく女としての自分が、誰かの、ソンジュンへの想いを綴ることを。

「金になる仕事なら、何でもやるよ」

虚ろな目をしたまま、そう言ったユニに、ファンは愛想よく笑った。

「もお、なら最初からそう言ってくださいよ。じゃ、あとはこれ。注釈本の筆写ね。それから……」

言いながら、ファンは巻紙の山を高くしていく。
そうだ。何だってやらなきゃ、とユニは必死で気持ちを切り替えようとした。
今まで一つ屋根の下で同じように暮らしていたから、何か勘違いをしていたのかもしれない。
所詮、ソンジュンとは住む世界が違うのだ。
それに、ソンジュンを好きになったからといって、彼の前であくまで男である自分にはどうなるものでもない。
こんな気持ちは早く忘れなければ。そして今までどおり、目の前にある仕事をがむしゃらにこなすのだ。
生きていくために。

水車小屋で女の姿に戻り、両腕にどっさり仕事と荷物を下げたユニが南山村に着いたのは、もう日が落ちてからだった。
たくさんの荷物をここまで持って帰ってくるだけでもへとへとだったが、それ以上にユニの足取りを重くしていたのは、未だ胸にちらつくソンジュンの顔だった。

今にも崩れそうな石積みの塀を過ぎ、自宅の庭に入るとそこには、洗濯物を干している母の後ろ姿があった。
愚痴や弱気を漏らすことの多い母だが、家事に忙しくしている彼女の動作はいつもきびきびとしていて、そんな姿を見るのがユニは好きだった。
いつもの母だ。ユニが、どんな格好をしてどこで何をしていようが、母は変わらずここにいて、普段どおり立ち働いている。干した服の皺を伸ばす母の手を見たとき、それまでユニの中で張り詰めていた何かが、ふいに緩んだ。彼女は荷物を置くと、そっと母の背中を抱き締めた。

一瞬、母は驚いたように動きを止めたが、それがユニだとわかると、静かな声で言った。

「───家にも入らないで、何してるの」

ユニは黙って、母の肩に頬を押し付けた。懐かしい母の匂いを嗅ぐと、喉の奥が詰まって、視界が滲んだ。
前で重ねたユニの手を、母が握り締める。包帯は外していたが、大射礼で負った傷に気づいたのだろう。母の気配がさっと変わるのがわかった。振り向いた母は、眉を潜めて娘の顔を覗き込んだ。

「お前、何かあったの?」

ユニは潤んだ目を細めて、微笑んだ。

「何も。ただ、嬉しいだけ。久しぶりに家に帰れたから、すごく嬉しいの」

母は何も言わず、ユニを抱き寄せた。母の手が、幼い子をあやすように優しくユニの背を叩いてくれる。
堰を切ったように、涙が溢れだした。
ユニはいつの間にか自分より小さくなった母の身体を抱き締めて、思い切り泣いた。


その晩の食卓には、この家では見たこともない程のご馳走が並んだ。薄い粥とキムチしか乗せたことのない卓が、焼き物や煮物で溢れかえっている。
だがそんな食卓を目の前にしても、というより、こんな豪勢な食事が出てきたので尚更だったのかもしれない。
母と弟の顔は晴れなかった。
ユニには、二人の気持ちがわかりすぎるほどわかった。
こんな食べ物や質の良い薬を持ち帰るために、いったいどれだけの苦労をしているのかと。そう問いたげに自分を見る視線が、すべてを語っていたからだ。

ユニは、母とユンシクの椀に肉やナムルを乗せてやりながら、明るく笑った。

「私のこと、すごく可愛がってくれる茶母がいてね。いいって言うのにたくさん包んで持たせてくれたの。さ、早く食べて」

その笑顔を見て、母とユンシクはようやく匙を手に取った。二人の明るい顔が見たくて頑張っているのに、こんな風に心配させては元も子もない。
とても喉を通る心境ではなかったが、ユニも汁椀を取り、口に流し込んだ。


*   *   *

ジェシンは、額に脂汗を浮かせながら、腹の包帯を巻き直していた。
自宅に戻ったのはいつ以来だろう。こうも放蕩をしていると、ここも自分の部屋とはまるで思えない。
必要以上に豪奢な金張りの屏風や、絹の脇息を見るにつけ、何故か街で奴婢の子供に菓子をあげていたユンシクを思い出し、ジェシンは苛立った。さっきから包帯が上手く巻けないのも、きっとそのせいだ。

「くそっ!」

腹立ち紛れに脇息を蹴飛ばし、包帯はきれいに巻くことを諦めた。傷口だけ覆えたらいいとぐるぐる縛っていると、部屋の障子がいきなり開いた。ジェシンの部屋に断りもなく入れるのは、屋敷の主である大司憲、ムン・グンスだけだ。ジェシンが顔をしかめたのはもちろん、傷が痛んだからではない。だが、しかめっ面なら相手も相当なものだった。

「愚か者が。傷口を締め付ければ治るとでも思っているのか?」

ジェシンは服の前を合わせ、立ち上がった。差し挟んだ文机の上に、父は手にしていた盆を置いた。

「使いなさい。大射礼で怪我をしたと医者に言って、処方してもらった」

白い器に入った薬草を ちらと見下ろして、ジェシンはすぐに父から顔を背けた。薬くらい、使用人に持って行かせれば済むものを、わざわざ自らお出ましとは。また例のごとく説教が始まるのかと思うと、うんざりした。

「キム・ユンシクという儒生とは、あまり親しくするな」

父は唐突に、そう切り出した。だがジェシンは驚きはしなかった。父の行動規準に照らし合わせれば、それくらい予想はつく。だが彼は敢えて訊いた。

「何故です?出世に役に立たない、南人だからですか」

ぴくりと目尻を痙攣させて、父は声を荒げた。

「いい加減にしないか!いつまでそうやってひねくれている気だ!」
「貴方こそいつまで、老論の傀儡でいる気ですか!」

口元を震わせ、ジェシンは言った。

「あの日俺は、兄上と共に死にました。父上は兄上の死を黙認して、老論から地位を守り、そして同時に、二人の息子を見捨てたんだ」

やはりこんな屋敷に戻ってくるべきではなかった。足早に立ち去ろうとしたジェシンの背に向かい、父が投げつけるように言った。

「何とでも言うがいい。そうして得た力で、私はお前を守ってみせる」

無言で立ち尽くすジェシンに、父は続ける。

「キム・ユンシクと親しくするのは危険だ。兵曹判書は、彼を紅壁書だと疑っている」

咄嗟に、昼間のことが思い出された。ユンシクの後をつけていた私兵らしき男。兵曹判書の手の者だと言っていたが、探っていたのはそれか。だが、いくらなんでもあのユンシクが紅壁書とは。

「どうしてです?なんであいつが」
「キム・スンホン……お前の兄と共に金縢之詞を運び、犠牲になった男だ。キム・ユンシクは、彼の息子なのだ」

衝撃が、ジェシンから言葉を失わせた。彼は瞬きするのも忘れ、父の顔を見返した。


*   *   *


夕食の後。帰る途中に買い求めた簪を母にあてがってやりながら、ふとユニは尋ねた。

「お母様、お父様のどこが好きだった?」

鏡の中の母の顔は、穏やかに微笑んでいる。

「簪一本買ってくれなかった人のどこが良くて、老論の実家を捨ててまで一緒になったの?」
「何を言ってるの」
「家族を捨ててお父様を選んだこと……後悔したことはなかった?」

俯いた母は、かさついた手の甲の皺を伸ばしながら、「後悔ならしてるわ。毎日ね」と、呟くように言った。

「お前を成均館に送り出したこと、毎日後悔してる。あの時、実家と縁を切ったりしなければ、自分の娘にこんな苦労をかけることはなかった。……後悔ばかりよ」

そう言う母も、ユニには想像もつかない程の苦労をしてきたはずだ。なのに母の口から、父の悪口を聞いたことはなかった。自分を責めることはあっても、姉弟の前で、父を責めたことは一度として無い母だった。

ユニは母の肩にそっと手を置いて、頭をもたせかけた。じんわりとした温もりが、母の背中から伝わってくる。
それが心地良くて、ユニは目を閉じた。





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2012/06/15 Fri. 22:51 [edit]

category: 第九話

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第九話 2 溝 

「結婚?」

ソンジュンにはかつてないことだった。
父の口から出た言葉の意味が咄嗟にはわからず、思わず訊き返してしまうなどということは。

その夜遅く、父の部屋に呼び出されたソンジュンは、白い髭に覆われた父の口元を注意深く見つめ、それが自分の聞き間違いであることを祈った。だが押し黙った父の前ではそれも虚しかった。

「父上、僕はまだ……」
「では、男が今日のような行動をとりながら、責任を取るつもりはないと?」

相手の言葉を待っていたのは、父も同じだったらしい。言下にそう言って、息子を見据える。

「ちょうどいい機会だ。婚礼が終わったら、成均館を出て、大科の準備をしなさい」
「父上!」
「話はそれだけだ」

一切の異論を許さぬ様子で、父は差し挟んだ文机に書を広げた。静かに墨を擦る音が、ソンジュンに退出を促す。
彼は何も言えず、座を立つしかなかった。


*   *   *


土瓶から、細く煙が立ってきた。ユニは炭を扇いでいた手を止め、土瓶の紙蓋をそっと開けた。漢方薬の香りが、白い煙とともに ぷんと立ち昇り、庭先の風に散った。
こうやって実際に煎じてみるとよくわかる。混じりけのない生薬の香りは、今までユンシクに飲ませていたものとは明らかに質の違うものだ。弟の体調も、これで随分良くなるかもしれない。
ユニは傍らに置いてあった薬包の束に視線を投げた。表面に押された成均館の印を見、ふと、これを手渡してくれたときのソンジュンを思い出した。

支給された金子が嬉しくて、姉である自分ですら忘れそうになっていた弟の薬。
ソンジュンはそれを覚えていて、この薬の束を用意させたのだ。
彼が安っぽい同情や優越感のためにしたのではないことくらい、本当はよくわかっていた。
だが彼が示してくれる不器用な友情に、これ以上甘えるわけにはいかなかった。

彼はいずれ官吏となり、国の中枢となるべく、出世街道をひた走るだろう左議政の息子、イ・ソンジュン。
一方自分は、性別を偽り成均館に潜り込んだ、名も無き貧しい南人の娘。
嘘が露見することなく卒業できれば幸運だ。もしバレたら命はない。そんな明日をも知れぬ身で、ソンジュンと同じ立場で友を名乗るなど、身の程知らずもいいところだったのだ。

いい頃合いだったのかもしれない、とユニは思う。
こうして家に帰ってくると、自分のいる世界を思い出せる。現実はこうだったのだと、己の思い違いを正すことができる。
あまりにも違いすぎるのだ。彼と自分は、何もかも。

ソンジュンとは距離を置こう。これ以上近くにいたら、きっと辛くなるだけだから。

団扇を持つ手を、再び忙しく動かし始めたユニは、庭に面した縁側に弟が出てくる気配を感じ、振り向いた。
ユニが肩越しに微笑むと、ユンシクは縁側に腰を下ろし、庭先に屈んでいる姉の顔を覗きこむようにして、言った。

「本当に……大丈夫?何も問題はないの?」

長患いのせいで面やつれしたユンシクからそんな風に心配されると、なんだかおかしな気分だ。だが思い返せば、彼はずっとそうだった気がする。働き詰めの母や姉のことを、床の中からいつも心配そうに見つめていた。

ユニは弟に向かい、精一杯明るく笑って答えた。

「もちろんよ。姉さん、これからもっと頑張るからね。あなたの名に、恥じないように」

キム・ユンシク。その名は、彼女の誓いそのものだった。


*   *   *

短い休暇が終わり、儒生たちが続々と戻ってくると、成均館はあっという間にいつもの活気で溢れた。
昼食前の進士食堂では、儒生たちが集まり、それぞれに持ち込んだ品々や菓子等土産物の類を自慢気に見せ合っている。

「うちの親が、帰り間際にこれを握らせてさ。よく見もしないで持ってきたら、参ったよ。宝石が嵌め込まれてる」

大量の菓子を床に広げた後、ヘウォンがそう言って懐からおもむろに取り出したのは小さな水差しだった。
おお、とドヒョンが声を上げる。

「これはまさしく、贅沢品だからと陛下が売買を禁じた、青花白磁!」

ウタクがきらきら光る眼鏡紐をいじりながら、言った。

「子、曰く『貧にして楽しむ』。たとえ貧しくとも、楽しむことを知れってことだな」
「ほほぉ、お前の眼鏡紐、その輝きは煙水晶だな?」

ドヒョンは彼の自慢の品を指摘してやることも忘れない。

「母上が、この高価な眼鏡を失くしやしないかと心配なさるもので。ま、ちょっとつけてみたんだ」

ウタクはそう言うが、実際、眼鏡よりそれを吊るす紐の方が高価なのは誰が見ても明らかだ。

「ところでヨンハ、お前は何を持ってきたんだ?」

傍らで、彼等の話を聞くともなしに聞いていたヨンハに、ドヒョンが菓子を頬張りながら声をかけた。
実はさっきから、彼の手にしている包みが気になって仕方なかったらしい。

「私のは、単なるおもちゃだよ。以前注文していたのが、やっと届いたもんだから」
「おもちゃ?」
「ああ。去年の夏に、パク・チウォン先生と清の燕京に行った時に、紫禁城を見たんだ。で、それを職人に作らせたんだが……とにかく時間がかかってね」

と言いつつ、彼が解いた包みから取り出したのは、ほんの、手のひらに乗るほどの小さな模型だ。だがそれは、金細工で細部まで精巧に作りこまれ、再現されており、寸法こそ違うものの、本物にも劣らぬ豪奢さだった。

流石は都一の大商人の息子といったところか。ヨンハの持ち込む物は他の儒生たちのそれとは格が違う。
彼の紫禁城を最後に、進士食堂の土産自慢はぴたりと収まった。

「おい、お前ら」

とそこへ、足音高く入ってきたのはジェシンである。

「テムルを知らないか」

一同が首を振ると、ジェシンは苛立ちを逃すように小さく息を吐き出して、食堂を出ていった。
ヨンハは眉を上げてそれを見送ると、手にした紫禁城をまた惚れ惚れと眺めた。

「そういえばまだあのおチビちゃんに会ってないなぁ。早くこいつを見せたいのに」


*   *   *


その日、成均館に戻るなりキム・ユンシクを捜していたのは、ジェシンだけではなかった。
ソンジュンも早々に自宅を出て東斎に帰ってきたのだが一足遅く、中二房にユンシクの荷物はあるのに彼の姿がない。ジェシンのように誰彼となく捕まえて尋ねたりこそしなかったが、彼の焦りは募るばかりだった。

そのユンシクをようやく見つけたのは、尊経閣を出て、明倫堂を過ぎたあたりの中庭だった。こちらへ向かって歩いてくる、華奢な儒生服。腕には、数本の巻紙と筆入れを抱えている。彼はソンジュンと目が合うと、そのまま黙って通り過ぎようとした。
ソンジュンはすれ違いざま、彼の腕を掴んだ。

「話がある。───君に、訊きたいことも」

ユンシクは、強張らせていた表情を ぱっとほころばせ、ソンジュンを見上げた。

「この前は、少し言い過ぎた。ぼくは平気だから、気にするなよ。金は、少しずつだけど、必ず返す」
「そんな話がしたいんじゃない」

ああ、と彼はソンジュンを遮り、もう一度笑った。

「うっかりしてた。言い忘れるところだったよ。……今まで、どうもありがとう」

そう言って頭を下げるユンシクに、ソンジュンは やめてくれ、と心の中で呟いた。

礼を言われただけだというのに、まるで別れを告げる言葉のように彼には聞こえた。
別に男同士だし、恋人でもあるまいし別れも何もない。だがソンジュンはそのとき、ユンシクとの間にできてしまった大きな隔たりを、彼の態度と言葉の中に、はっきりと感じたのだった。





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2012/06/21 Thu. 09:54 [edit]

category: 第九話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第九話 3 泥棒騒ぎ 

「おい義弟〈メジェ〉、ここにいたのか」

立ち去ったユンシクと入れ替わるように、ソンジュンに声を掛けてきたのはインスだった。初耳だったのか、その横で、ビョンチュンが「義弟ですって?」と驚いたように目を剥いている。
インスは構わず、うっすらと口元に笑みを浮かべた。

「聞いたぞ。結婚の話」
「少し誤解があっただけです。すぐに解決しますので、どうぞご心配なく」

「誤解?」とインスが面白そうに眉を上げた。

「お前は息子だというのに、私より左議政様のことをわかっていないようだな」

そう言って、ソンジュンの肩に手を置く。仕草だけを見れば親しげだが、ソンジュンの不快感は拭いようがない。こんな男と義理でも兄弟になるなど、悪い冗談だ。考えるだけでぞっとする。

だがインスは既に自分の勝利を宣言するかのように、言った。

「覚えておくがいい。お前の父親の決定は、王さえも覆すことはできないのだ」


*   *   *

講義のない日の明倫堂は、一人になるにはいい場所だ。
予習や試験勉強をする儒生たちは大抵、自室にこもるか尊経閣に行くので、だだっ広いだけで何もない講義室にわざわざ足を運ぶ者はいない。いるとすれば、学則で禁じられている書写や代筆業で小遣い稼ぎをしている───つまりは、ユニくらいのものだった。

“愛しいあなたへ”

恋文の代筆なんて、やっぱり引き受けるんじゃなかった、とユニは今更ながら後悔した。
冒頭の宛名がこれでいいのかどうかもわからない。
しかも、恋する者の気持ちを代弁しようと思ったら、ユニの場合、どうしたって浮かんでくる面影がある。

文机に向かっているときはぴんと背筋が伸びているのに、歩くときはほんの少しだけ猫背気味になる後ろ姿。
振り向くとき、肩越しに見える怜悧な頬の線と、長い睫毛。
いつも気難しい顔をしているけれど、たまに笑うと、子供みたいになる表情と、右の目元に寄る、微かな皺。
キム・ユンシク、と呼ぶときの、低くて甘い声───。

はっ、とユニは慌てて筆を上げた。紙に筆先を下ろしたままにしていたので、文字がすっかり滲んでしまっていた。

───涙のあとみたい。

ふと、そんなことを思った。

ソンジュンとの別れ際、インスが彼に向かい“義弟”と呼びかけるのを確かに聞いた。
芙蓉花との縁談が決まったのかもしれない。
気にはなったが、距離を置こうと決めた矢先に、そんな突っ込んだ話を本人には訊けなかった。
それに、事実がわかったところでどうなるというのか。
友でいることすらやめた自分には、全く関係のない話だというのに。

彼女は小さく溜息をつき、書きかけの手紙を丸めた。

明倫堂を出ると、日はもう傾いており、ひんやりとした風が首筋を撫でていった。少し前までの、まとわりつくような生温い空気は既に無い。いつの間にか、だが確かに、季節は変わっていたのだ。

草むらから響く虫の音を聞きながら、東斎への道をゆっくり歩いていたユニは、反対側から、大股でこちらへやってくる背の高い人影を見た。薄暗くはっきりと顔は見えないが、それでもわかる。髷も結わず、肩まである髪をあんな風になびかせているのは、この成均館では一人しかいない。

ジェシンはユニの前に立つと、深呼吸でもするように肩をひとつ上下させ、言った。

「テムル、お前……」

そう口にはしたものの、彼はまるで喉に息を詰まらせたかのように、言葉を切ってしまった。

「先輩?」

何かあったんですか、と無精髭の顔を覗き込む。だがジェシンは、「お前は、その……だから」と、彼らしくもなく意味のない言葉を並べるばかりである。

やがて、頭の中をひっかき回してやっと探し当てたのだろうか。彼は言った。

「お前がここに入った理由は何だ?」

唐突な質問に戸惑って、ユニはジェシンを見返した。頬を歪めた彼の表情〈かお〉は、有り得ないことだが一瞬、泣いているようにも見えた。

「あのことか?お前は何もかも……知ってたのか?」

あのこと?

一体何のことかと聞き返そうとしたそのとき。
書吏のチュンホが慌ただしく駆け寄ってきて、彼等に告げた。

「大変です!すぐに清斎にお戻りを!」


ユニがジェシンと清斎に戻ってみると、そこは蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。
東西を問わず、寮生たちが次々と外に飛び出してきては、金や物が失くなったと大声で喚き散らし、右往左往している。
ウタクなどは、どうもいつもと顔が違うと思ったら、眼鏡を掛けていなかった。どうやら、今朝自慢していた煙水晶の眼鏡紐を、眼鏡ごと持って行かれたらしい。
ほんのちょっとしか外してなかったのに、と、小さな目をしょぼしょぼさせながら彼は嘆いた。

もともと泥棒が盗んでくれるほど価値のあるものなど持っていないユニは、自分の部屋を確認する必要すら感じず、ただ呆気にとられてその光景を見つめた。
確か、贅沢品の持ち込みは禁じられているはずだが、いったい彼等はどれだけ学則を犯していたのだろう。
自分の内職なんてまだ可愛いものだと思った。

「まったく悪趣味なコソ泥だよ。どうせ盗むなら、服の色合わせくらい考えればいいものを。お陰で明日から着るものに苦労しそうだ」

ユニとジェシンの傍にやってきたヨリムが、儒生たちの慌てぶりを眺めやりつつ、言った。

「ヨリム先輩も被害を?盗まれたのは、服だけですか?」
「いいや。紫禁城が失くなってる。完成に一年もかかった手工芸の名品だぞ。畜生、ふざけやがって……!」

彼にとっては、服や金などよりも、紫禁城の模型を盗まれたことが余程悔しかったのだろう。珍しく口汚い言葉を吐き捨て、唇を噛んだ。


チョン博士の話によると、泥棒の被害にあったのは、清斎だけではないようだった。薬房からもごっそり薬の束が消えたらしく、儒生たち全員を中庭に並ばせた大司成は、翌日に旬頭殿講を控えているということもあってか、これ以上ないほど憮然とした表情をしていた。

「わ、私は食あたりで動けませんでした!チョン先生もご存知のはずです!」
「私は、ウタクと尊経閣で旬頭殿講の準備をしてました。他にも大勢いましたから、訊いてみてください」

そこで始まった事情聴取は、全く後ろ暗いところのない者たちをも震え上がらせた。何せ、普段から眼光鋭いユ博士が、その目を更に底光りさせて一人一人の顔を間近でじっと見据えてくるのだ。吟味される方の緊張感といったら、尋常ではなかった。
そのユ博士が、目の前で立ち止まる。ユニの番だ。

「キム・ユンシク、君はどこにいた?」
「ぼくは、明倫堂にいました」
「何をしていた」

一呼吸置いて、答えた。

「ぼくも、旬頭殿講の準備をしてました」
「誰か証人はいるか?」
「それは……」

ユニは言いよどんだ。恋文なんて、たとえ代筆でも人のいるところで書けるものではない。わざわざ誰もいない場所を選んで行ったのだから、証人などいるはずもなかった。
すかさず、後ろの列からビョンチュンが声を上げた。

「おかしいな。さっきコロがテムルをあちこち捜し回ってたみたいだが……見つからないって言ってたろ」

そういえばそうだな、と周囲の者たちも口々に言い交わす。

「なあ、皆も聞いたよな?」

ざわつき始めた儒生たちを更に煽るように、ビョンチュンが同意を求めると、ジェシンがユニの隣に進み出てきて、言った。

「それは俺が、明倫堂まで捜さなかったからです」

ユ博士がユニの方を見、「事実か?」と尋ねる。ユニは頷き、即座に答えた。

「はい。本当です。信じてください」

そのとき、書吏のジャンボクが中庭に息を切らしながら駆け込んできた。

「わかりました!犯人を、突き止めました!」
「何だと?」

大司成をはじめ、教官たちが一斉にジャンボクを取り囲む。

「薬屋に薬包を売りに来た学生がいたようです。その者が、盗品も売り払ったのではと」
「で、その者の見当はついたのか?」
「号牌〈ホベ〉を落としていったそうです。これです」

差し出された木片を、ユ博士が手に取った。その表情が、一気に険しくなる。
少しの間の後、博士は儒生たちを見渡し、号牌に記された名を口にした。

「───キム・ユンシク」

指先が、氷の中に突っ込んだように急激に冷えていく。
騒然とする儒生たちの中で、ユニは息を呑んだまま動けなくなった。






*************************************
あまるですどうもこんにちわ。梅雨真っ盛り(なんて言い方あるのか知らんが)ですね!

ウチの子の体操服、たまたま洗濯カゴの一番下になってたんですが。
……カビ生えてました。Σ(゚д゚lll)ガーン
どーすんだコレ。カビキラーで落ちるのか?うーん。

ところで韓国の身内の呼称って、いっぱいありすぎて難しいスね(^^ゞ
呼ぶ本人が男か女かでも違うし。ヒョンブー?ヒョンスニム?アレ?みたいな(笑)
でもいちいち説明しなくてもどういう関係かわかるので、覚えれば便利なんだろうなきっと。
この回のユニにはちょっと酷だったけども。

しかし韓国に嫁に行ったら親戚の集まりとかでめっさ焦りそうだ…←いらん心配



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2012/06/24 Sun. 13:26 [edit]

category: 第九話

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第九話 4 王の課題 

「ぼくじゃありません!」

チョン博士の目が、じっと自分に注がれるのを感じ、ユニは必死に訴えた。

「先生、本当です。ぼくは何も」
「成均館の学生が、恥を知れ」

インスが、配下を従えてユニに歩み寄る。

「問題は、盗みだけではない。成均館の薬包は、恵民署から届けられる。つまり民の血税であり、貧しい民に還元されるべきものだ。それを売って稼ごうとするとは───」
「まだ断定はできません」

ユニより先に、インスの言葉を遮る者がいた。振り向くと、そこにいたのはソンジュンだった。
どきりとした。真っ直ぐにインスを見据える彼の視線が、一瞬戦慄を覚えるほど鋭く、冷たいものだったからだ。

「キム・ユンシクには、病気の弟がいます。薬包を売りはしないはずです。必要なら、自宅に使いをやり、確認してはいかがですか」
「号牌より確かな証拠があるか?」

あくまでユニを犯人と見なそうとするインスに、待ったをかけたのはユ博士だった。

「イ・ソンジュンの言うとおりだ。キム・ユンシクの家に使いをやって、確認することとする」
「待ってください、それは……それは、困ります」

ユニが拒否したのは、ほとんど反射的だった。泥棒の濡れ衣を着せられるのはたまったものではないが、家には本物のユンシクがいる。いきなり誰かに来られるのはもっと困る。下手をするとコソ泥なんかよりもっと重い罪が露見してしまう。
ソンジュンの咎めるような視線が自分に向かうのは感じたが、どうしようもなかった。
インスが微かに口の端を上げ、ユ博士に言った。

「この件は、斎会〈チェフェ〉にお任せいただきたい」
「斎会に?」

大司成が声を上げると、インスは、まるで予め用意していたかのように、よどみなく答えた。

「成均館の中で起こったことは、義禁府ではなく、成均館の中で片をつけるべきでしょう。キム・ユンシクを斎会において断罪し、成均館の儒生としての責任を果たし、たった一人の卑しい学生によって傷つけられた我々成均館儒生の名誉を守ります」

と、そのとき。

「───では、その議長は余が務めよう」

通用門の方からいきなりそう告げる声が聞こえた。その場にいた者たちは皆はっと息を呑み、一斉に頭を垂れた。
数人の内侍や武官を従えて、成均館の中庭に現れたのは誰あろう、王正祖その人だった。

「へ、陛下!なぜこちらに……?」

低頭しながらも、大司成があからさまに狼狽えた声を上げる。王は構うことなく、高らかに宣言した。

「この事件を、此度の旬頭殿講の課題とする」

儒生たちが、腰を折ったまま互いを見交わす。どの顔にも、困惑の色が浮かんでいた。
ユニは上目遣いにそっと、王を見た。
王宮で初めて尊顔を拝したときや、大射礼のときのような龍袍姿ではない。ごく普通に両班の男が身につけるような道袍を着てはいるが、その身から発せられる名状し難い雰囲気というか、威厳のようなものは、明らかに他の者たちとは違う。
この人はやはり王なのだ、とユニは思った。そして同時に、畏怖も覚えた。

「キム・ユンシク。そなたは退学だ」

王の言葉に、ユニは凍りついた。だが王は儒生たちに向かい、続けた。

「ただしそれは彼が、盗難事件の真犯人だったらの話だ。薬包を売った者が、成均館の盗品を売ったという疑いが強い。その薬屋で、キム・ユンシクの号牌が見つかった。だが本人は無実を主張している。キム・ユンシクが無実と思う学生と、犯人だと思う学生、二つの組に別れ、それぞれ余にその根拠を証明して見せよ。これが、今回の旬頭殿講の課題だ」

大司成がおずおずと切り出す。

「しかし陛下、旬頭殿講とは本来、経典の講経〈カンギョン・暗記試験〉と製述〈チェスル・論文試験〉を行うのが決まりですが……」
「では聞こう。今、ここにいる学生たちに、儒教の教えを論じる資格があるか?」

王はにわかに強い口調で切り込んだ。

「万が一、キム・ユンシクが犯人なら、成均館は泥棒を育てたことになる。そんな教育者や学生たちに、儒学の礼と法を語る資格はない」
「しっ、死をもって償います!」

ユ博士以下、教官たちが痛切な表情で一様に低頭する中、大司成は半泣きで平伏した。

「そしてもし、キム・ユンシクが犯人でないなら、事件はでっち上げられたもので、彼は濡れ衣を着せられたことになる。罪を被せた学生にはここで学ぶ資格など、もはやありはしない。故に、余は今回の事件をもって、試験問題とするのだ。───掌議」

王はインスに向かい、尋ねた。

「はい、陛下」
「都の治安はどこの管轄だ?」

漢城府〈ハンソンブ〉です、とインスが即答すると、王は頷き、学生たちに再び向き直った。

「ここにいる全員に、事件を捜査する権限を与える。旬頭殿講の慣例に従い、期限は2日。余はこれより、成均館の学生たち全員を、2日間漢城府の権知〈クォンジ〉に任命する」
※権知……実習生

*   *   *

「漢城府の権知とは……一介の学生たちに、何ができるというんです」

正録庁では大司成とユ博士、そして数名の書吏たちが渋い顔を突き合わせていた。チョン博士は、話があるという王に付き従い、薬房に戻ったままだ。

「それにしても、なぜ陛下はそんなことを?」

ジャンボクの問いに、大司成はため息混じりに答える。

「ご自身が入学させた学生を退学させないためでしょ。私に耳打ちしてくだされば、ぱっと解決したものを」
「ですが……本当にキム・ユンシク庠儒が犯人なんでしょうか」

心配そうに尋ねるチュンホは、彼が犯人だとはとても信じられない様子だ。ユ博士も同様だったが、その表情は一層険しい。

「たとえ彼が無実だったとしても、真犯人捜しは難しいだろう。既に盗品は売り払われ、犯人は行方をくらましているはずだ。たった2日で、どれだけのことができるか……」

そこにいる誰もが、真実はどうあれ、キム・ユンシクの退学は確定したも同然だと思った。
重苦しい沈黙が、正録庁に流れた。


一方、王が退出した後の明倫堂の中庭では、ユニを前にインスが冷ややかな笑みを浮かべていた。

「安心するな。言っておくが、状況は何も変わっていない。単に、お前の退学が2日延びたというだけだ」

インスはユニに視線を据えたまま、宣戦布告するかのように、言った。

「私はキム・ユンシクの罪を立証し、王の前に、失墜した成均館儒生の名誉を回復する。志を共にする者は?」

おお、とその場にいた大多数の者たちから一斉に声が上がった。
ぞろぞろとインスの後について清斎に戻っていく儒生たちに、わかってはいたことだが、ユニの気持ちは沈んだ。
普段仲の良いドヒョンやヘウォン、ウタクは流石に気が引けるのか、しばらくぐずぐずしていたが、やはり掌議の威光には勝てなかったらしく、気まずそうに言った。

「すまんな、ユンシク。俺はお前の潔白を信じちゃいるが……なんせ、成績がかかってる」
「この状況で無実の側に回ったら、間違いなく不可をくらっちまう。恨むなら、成績重視の社会を恨め」

やっぱり人数の多い方が確実だからな、とそれぞれに言い訳ともつかぬことを言って、ユニの肩を叩き、行ってしまった。

結局。

その場に残ったのはユニを除けば、ソンジュン、ジェシン、ヨンハの3人だけだった。





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2012/06/27 Wed. 22:35 [edit]

category: 第九話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第九話 5 疑い 

4人だけになった明倫堂の中庭に、また虫の音が戻ってきた。

「───訊きたいことがある」

沈黙を破ったのは、ソンジュンだった。彼は草を踏んで、ユニの前に立った。

「君が、明倫堂にいたのを見た者はいるか?」

ユニがかぶりを振ると、更に彼は尋ねた。

「号牌はどうした」
「まさか、ぼくを疑ってるのか?」

ユニの問いにも、彼女を見下ろすソンジュンの目は何の変化もない。その審問官のような冷淡さは先程のインスの比ではなかった。

「なぜ家に使いを送らなかった。潔白なら、それで簡単に解決できたはずだ。違うか?」
「お前、何の真似だ!」

ジェシンが横からソンジュンの肩に掴みかかった。

「確認しているだけです」
「んなことしなくたって、わかんだろ!こいつは嵌められたんだよ!」

ソンジュンはジェシンの手首を掴み、払いのけた。その仕草には、一見落ち着き払っている彼の、内に孕む激しい怒りが現れていた。だが彼は相変わらず露ほどもそれを感じさせない声で、言った。

「信じるだけでは、何も変わりません。キム・ユンシクは盗品を売り払い、号牌を落とした泥棒のままです」

ジェシンが、小馬鹿にしたように口の端を上げる。

「またかよ。つまりこれは王が行う試験だから、不確かな人間を信じて不可を取りたくないと。そういうことか」
「無論です」

愚問だとでも言いたげに、ソンジュンは答えた。

「てめぇ……骨の髄まで老論だな!」

ソンジュンに向かい、ジェシンが拳を振り上げる。その手を、ヨンハがすんでのところで掴んだ。

「離せ!」
「やだね。まぁ喧嘩の見物は何より楽しいけどさ。テムルの味方は私たちだけなんだし、仲良くやろうよ」

殺気立ったジェシンとは裏腹に、いつもと変わらぬ軽い調子でヨンハは言い、にっこりと笑った。

「結構です」

思わず、ユニはそう言っていた。本当に自分の口から出たのかと疑うほど、固い声だった。

「ぼくは盗んでいません。だから、自分で解決します」
「自分で、何をどうする気だ?」

ソンジュンの容赦無い物言いに、ユニは黙って唇を噛んだ。何か言ったら、涙が零れそうだったのだ。
ユニはそのとき、自分が拗ねた子供のように意固地になっているのを自覚していた。
濡れ衣を着せられたことではなく、ソンジュンに信じてもらえないことが、どうしようもなく腹立たしく、悲しかった。

「嵌められたというなら、言葉や暴力よりも物証でそれを証明してください」

ソンジュンの言葉は、ジェシンに向けたものだった。それを最後に、彼はくるりと背を向け、尊経閣の方へと去って行った。

慰めや、励ましが欲しかったわけではない。だけど、こんなのって酷すぎる───。
暗がりに消えていくソンジュンの背中を見つめながら、ユニは はっとした。

───馬鹿だ、私。

ソンジュンとは住む世界が違うのだと、友人であることも辞めようと心に決めたはずが、やっぱり頼っている。
自分を信じて、助けて欲しいという思いがこんなかたちで突き返されたからといって、彼を恨むなんて、筋違いも甚だしい。
どこまで、未練がましいんだろう。
ユニは両手をぎゅっと握り締め、ぐらつく心と身体を支えた。

「おいコロ、何処へ行く?」

ヨンハの声に顔を上げると、ジェシンもこちらに背を向けて中庭を出ていくところだった。だがその行く先は、ソンジュンとは別の方向だった。肩越しに横顔だけを見せて、彼は不貞腐れたように言った。

「作るんだよ、物証ってやつをな」


*   *   *


「キム・ユンシクのやつ、退学目前の心境はどうでしょうね」

西斎の庭先で、ビョンチュンが にたにたしながらインスの顔を覗き込み、その表情を伺う。薄く笑い返したインスは、次の瞬間、頬を歪めた。

「掌議?」

手で肩を押さえたインスの足元に、石が転がったのを見るなり、ビョンチュンは目を剥いた。
畏れ多くも成均館の掌議に向かって石礫を投げるなど、一体何処のバチあたりだ?

とそこへ、指の関節をこれ見よがしに鳴らしながらゆっくりとこちらへ歩いてくる人影があった。
ムン・ジェシンである。
ビョンチュンはたちまち、小さくなってカン・ムの後ろに回り込んだ。

「忘れたか?俺が、口より先に手が出る奴だってこと」

ジェシンが、インスから一瞬たりとも目を逸らさずに言う。
だが相手は掌議、ハ・インスだ。そんな脅しに簡単に動じるはずもなかった。
彼はその双眸にふてぶてしささえ漂わせ、ジェシンを見返した。

「それで?言いたいことは何だ?」
「最初から計算ずくだったんだろ。あのときテムルに気前よく薬を渡したのも、全てお前が仕組んだ罠だ」

クッ、と喉を鳴らして、インスは笑った。

「たいした想像力だな、コロ。まったく……これだから貧乏人への施しは嫌なんだ。善意でやったことがいつも裏切られる。だがまぁ、仕方がない。恩を仇で返すのは卑しさ故だ。たとえ成均館の儒生服を着ても、身についた卑しさは治るものではないからな」

ジェシンの顔色が変わった。お前もせいぜい用心しろ、と縁側〈マル〉に上がろうとしたインスの襟首を掴み、握り締めた拳を振り上げる。

「私を殴って反省室行きか。それも悪くないな。お前が反省室から出る頃には、キム・ユンシクは退学した後だ」

ぴたりと、ジェシンは動きを止めた。振りかざした拳が行き場を失い、微かに震える。

「……必ず真相を暴いてやる。首を洗って待ってろ。退学するのは、お前らだ」

唾を吐きかけるようにそう言うと、ジェシンはインスを突き飛ばす勢いでその襟元から手を離した。
背を向けて立ち去るジェシンを忌々しげに睨みつけながら、インスが乱れた襟を直す。その耳元に、ビョンチュンがひそひそと囁いた。

「どうかご安心を、掌議。今回は私がきっちりと手を打ちました。誰も、キム・ユンシクを犯人だと思い込んで疑いません」

ふん、と鼻で笑って、インスは言った。

「その口、滑らせないように気をつけろ」


*   *   *


ユニは、『経国大典』の写本を手に取り、胸に抱えた。だが彼女が尊経閣に来た目的は、それとは別にあった。
一つ向こうの書架の前で、立ったまま開いた本を熱心に読んでいるソンジュンが見える。
他には、誰もいない。ソンジュンが本の頁をめくる微かな音だけが、しんとした室内に響いていた。

ユニは一つ深呼吸すると、狭い書架の間をすり抜け、ソンジュンの横に立った。

「ぼくに同情してるなら、そんな必要ないから」

ソンジュンが本から目を上げて、ユニを見た。

「どういう意味だ」
「皆がぼくを疑ってるから、哀れに思って助けようとしてるなら、いらないってこと。不可をもらうのが心配なら、今からでも……」
「いつ僕がそんなことを言った」

ソンジュンの声に、今度ははっきりと怒気が混じるのがわかった。だがユニも、怯むわけにはいかなかった。

「さっき、ぼくを問いただしたじゃないか。疑ってるからなんだろ?ぼくが、犯人じゃないかって」

ユニがそう言うと、彼は手にしていた本を、音をたてて閉じた。

「本当にそう思ってるのか?僕の助けがいらないという理由はそれか。君にとって僕は、成績に執着する老論の息子でしかないわけだ」

ユニは俯き、押し黙った。ひりひりするような空気が、彼女の肌を刺す。
彼が、本気で怒っていることを感じた。

「はじめから君を疑ってなどいない。不可を取るつもりもない。僕にいくつか訊かれたくらいで傷ついていたら、これから漢城府や陛下の前で、一人でどうやって対処する気だ?」

顔を上げたユニはそこに、自分を見つめるソンジュンの深い眼差しを見た。

「よく聞くんだ、キム・ユンシク。漢城府に行っても、味方は誰もいない。潔白を証明したいなら、覚悟を決めろ。君自身が心を強く持たなければ、濡れ衣を晴らすことなど、到底出来はしない」

それだけ言うと、ソンジュンは踵を返した。遠ざかる足音を聞きながら、ユニは、どう頑張っても彼にはかなわぬ自分を感じていた。
イ・ソンジュンという人は、いつもユニより一歩も二歩も先を歩き、そこから更に広い視野で物事を見ている。だからつい、頼ってしまう。知らず知らずのうちに、甘えてしまう。

駄目なのに。距離を置こうと、決めたのに。

ユニは痛みに疼く胸を持て余し、いつまでもそこに立ち尽くしていた。





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2012/06/28 Thu. 13:12 [edit]

category: 第九話

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