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第四話 1 警戒 

 中二房にソンジュンはいなかった。笠が置いてあるから、成均館の外へ出たわけでもなさそうだ。なら、彼が行きそうなところといえばあそこしかない。
 ユニはまた縁側に出て靴を履くと、東斎を出た。
 
 尊経閣は、前にここへ来たときとは違い、静まり返っていた。こんな早い時間からここへくる儒生もそうはいないらしい。そのせいか、墨の匂いが濃く漂っている。
 少し奥へ入ると、その姿はすぐに見つかった。書架に向かって立ち、手にした本にじっと見入っている背の高い人影。
 近くまで行くと、彼は書物に目を落としたまま、言った。

「意外と真面目なんだな。初講義のための予習に来たのか?」

 どう言おうかとしばらく逡巡したユニだったが。

「あの約束、まだ有効かな?」

 ソンジュンが本を書架に戻し、ユニを見た。

「新榜礼で、ぼくに借りがあるだろ。願いを聞くって約束だ」
「約束したことは何であれ、守る」

 願いがあるなら言ってくれ。彼の目が、ユニにそう語りかける。それに勇気を得て、彼女は切り出した。
 
「西斎に移って」

 じっとユニに注がれていたソンジュンの目が、僅かに見開かれた。それを見ていられずに、ユニは彼の肩のあたりに視線を移した。

「約束を、守ってくれるんだろう?イ・ソンジュン。西斎に……移って欲しいんだ」
「その話ならもう済んだはずだ」
「君が西斎に移らない限り、終わりはしないよ。掌議ハ・インスは……恐ろしい男だ。思ってたよりずっと。あいつと対立してまで、守らなきゃならない原則って、いったい何だよ?」

 しばしの沈黙があった。ソンジュンはユニに向き直ると、静かに言った。

「君に訊きたい。僕はただ単に、原則を守ろうとしているだけだ。───それは間違ってるか?」

 咄嗟に答えられないユニに、彼は畳み掛けるように続ける。

「せめて成均館の中では、党派での区別はしたくない。それが間違いか?何の疑問も持たず、多勢におもねるのが正しいことだと……本当にそう思うか?」

 ソンジュンの声には、真摯な響きがあった。ユニを責めているのでも、持論を展開しようとしているのでもない。ただ、答えを求めているのだ。彼が知りたいことへの答えを。だが。

「───掌議も他の儒生たちも、君の正論に関心なんか持ってない」

 そんな、はぐらかした返事しかできなかった。ソンジュンがそれで納得するはずもないのは承知の上だ。彼は一歩、ユニに近づいた。

「彼等にどう思われようが、関係ない。そんなのは慣れてる。僕が知りたいのは」

 少しの間のあと、彼は言った。

「キム・ユンシク、君の考えだ」

 胸を突かれた。
 本当はわかってる。彼は何も間違ってはいない。
 
 彼の考えを、行動を、融通がきかないとか世間知らずだとかで片付けて、一蹴するのは簡単だ。でも心の何処かで、イ・ソンジュンという男の存在を、暗い森の中に灯る、たった一つの灯火みたいに思っている自分がいる。
 
広がる闇は深すぎて、出口は何処にも見つからなくて、こんな小さな灯火など何の役にも立たない、そう思う一方で、この光が消えたときの更に深い闇を思うと、絶対に吹き消すことができない───。

 彼は、理想そのものなのだ。誰もが胸に抱きながら、決して手の届かないところにある理想。
手に入れることができないからせめて、夢だ戯言だと難癖をつけて、自分を慰めようとする。彼といるといつも腹立たしさを感じてしまうのはそのせいだ。普段は見ないようにしている己の中の矛盾や、意気地の無さ、胡麻化しと、嫌でも向き合わなくてはならなくなる。
 
 ユニは、乾いた唇を開いた。

「悪いけどぼくは……大科にも出仕にも、興味なんてない。ぼくの望みはただ、ここでの修学を無事に終えたい。それだけなんだ。だから君が……約束を守ってくれると、信じたい」

 声が震えるのを悟られないようにするのが精一杯だった。
 ユニは、ソンジュンの顔も見ずに、逃げるように尊経閣を出た。


「朝報〈チョボ〉でーす!」

 尊経閣前の中庭では、斎直たちがぱたぱたと走り回りながら何やら配っている。中の一人がユニを見つけて、走り寄ってきた。

「昨夜、紅壁書が現れたそうです!」

 そう言って、今朝発行されたばかりの朝報を手渡す。

「紅壁書?」

 記事にざっと目を通したユニは、昨夜拾った壁書に書かれていたのと同じ単語を、そこに見つけた。

「金縢之詞……」

 同時に思い出したのは、あのとき突然空から降ってきた黒装束の男だ。彼は官軍に追われていた。
 いとも簡単に軒下に張り付くあの身軽さ。あっという間に姿を消した、あの素早さ。単なる賊とは思えなかった。

「奴が……紅壁書だったんだ……」


* * *


「金縢之詞か」

 王宮の謁見室。官服に身を包んだ高級官僚たちがずらりと居並ぶ中、王が、手にした赤い壁書に眼鏡の奥の目を走らせた。やがて、低く呟くような声がそれを読み上げる。

「先王の遺志を盗みし者は、倫理なき臣下なり。血に染まりし真実を見ぬ者は、卑怯なる君主なり……」

 広く天井の高い謁見室では、王の声はよく響き、更に威圧感を増す。この景福宮の建立に携わった職人たちの腕を、御前に控える官僚たちは皆恨めしく思わずにはいられなかった。今日このときばかりは。

 玉座の王は壁書を置き、臣下を見渡した。

「そなたら、金縢之詞について、何か知っておるか?」
「恐れながら、何のことやら……」

 すかさず口を開いた兵曹判書ハ・ウギュを、イ・ジョンムが軽い咳払いで制する。低頭したまま、彼は予め準備していたかのような台詞を、よどみなく述べた。

「陛下ですらご存知ない先王のご遺志を、我ら臣下がどうして知り得ましょう。何卒お咎めなきよう、お願い申し上げるのみにございます」

 王は眼鏡をとり、言った。

「真実から目を逸らす卑怯な王と指さされたは余である。そなたらを咎めることなどできようか。早急に紅壁書を捕らえよ。さすれば、真相も明らかとなろう」

 「どうかな?左議政」と訊ねる王の口元には、微かな笑みが浮かんでいる。左議政は無言のまま、静かに頭を垂れた。

 
 司憲府の反応は迅速だった。王の謁見から数刻もたたないうちに、町のあちこちに紅壁書の人相書きが貼り出され、人々の関心を引いた。都の各出入り口には検問所が設けられ、そこを行き交う民は皆、顔や持ち物、身元を検められた。

 その様子を見つめる兵曹判書の表情には、明らかな焦りの色が浮かんでいる。彼は傍らの官軍隊長に向かい、眉尻を釣り上げて言った。

「何としても紅壁書を捕らえるのだ。万が一にも、王の護衛軍に先を越されるようなことがあれば、貴様の命は無いと思え!」

 はっ、と短く答える官軍隊長の強張った顔を忌々しげに見ながら、兵曹判書は昨晩の失態に頬を歪めた。彼にとって恐ろしいのは王よりもむしろ左議政だ。老論の長の怒りを買うことは、この朝鮮では虎の尾を踏むことに等しい。

「奴が泮村で姿を消したのがどうも引っ掛かる……。成均館も含めて、警戒を怠るな!」


* * *


 荒い手つきで戸棚を開け、酒瓶と肴の入った箱を引っ張り出す。この部屋の主は大概気に入らないが、こうやって棚を開ければ何かしら食い物にありつけるのだけはありがたい。
 
 ジェシンがどかりと床に腰を下ろし、酒瓶の栓を抜こうとすると、その腕をはっしと掴んで阻む手があった。

「コラ待て!お前、熱でもあるのか?」

 そう言って、額やら首筋やらをぺたぺたと触られるのが鬱陶しく、ジェシンはヨンハの手を払いのけた。

「だって、そうでなきゃあり得ないだろう?老論て言葉を聞くのすら嫌がるムン・ジェシンが、よりによってその長の息子イ・ソンジュンと熱い一夜を過ごした、なんて。おかしい。絶対におかしい!」

 そういやそうだな、と、ジェシンは昨夜のイ・ソンジュンとかいう新入生の顔を思い浮かべた。それだけで、胸がムカムカするのは他の老論たちと何ら変わらない。熱い一夜、なんてヨンハの言葉を肯定するつもりは断じてないが、よくも一晩同じ部屋で寝られたものだと我ながら不思議に思ってしまう。

「何故だ?」

 ジェシンが酒瓶を咥えようとした手を再び阻んで、ヨンハは訊ねた。

「どうして、奴だけは別なんだ?」
「何をわけのわからんことを……」

 一口、酒を含んだ。こんな風に、いくら呑んでも少しも酔えなくなってしまったのはいつからだろう。喉を通ってゆく感触も、以前とは違い、まるで水みたいに味気ない。ジェシンは言った。

「試すんだよ。あの野郎が、俺と同じ部屋でどこまで耐えられるか───試してやる」

 実際のところ、昨夜のジェシンは疲れていたのだ。成均館の外でひと暴れして、戻ってみたら会ったこともない新入生が二人も部屋を占領していて。それでも、いつもならちょっと睨んでやるだけで簡単に追い出せたはずだ。が、そうはいかなかった。

 あんな、いかにも坊ちゃん然としたお綺麗な顔をしているくせに、少しも怯むことなく言い返してきた。おそらくあれは、相当な頑固者だ。でなきゃ、老論なのに東斎に来るなんて馬鹿なことをするはずがない。
 しなくてもいい苦労をわざわざ自ら背負い込んで、自己陶酔でもしたいのか、それとも何か別の理由があるのか。
 真意はわからないが、昨夜は、そういう頑固者をしつこく相手にするより、とっとと横になる方を選んでしまった。要するに、面倒臭くなってしまったわけだ。
 
 ある意味、ジェシンはソンジュンに根負けしてしまったとも言える。それを認めるのも何だか癪に触って、ジェシンは酒をあおった。あの真面目くさった顔。やっぱり胸クソ悪い。

「そうだ!じゃ、キム・ユンシクは?お前、平気だったのか?」
「何が」
「昨夜だよ。出なかったか?あれ」

 そう言って、ヨンハはひっく、としゃっくりの真似をしてみせる。

「何のことだ」
「お前は女が近くにいると必ずしゃっくりが止まらなくなるだろ」
「バカ言え。ここは成均館だ。女の“お”の字もお目にかかれない、成均館だぞ」

 ヨンハは はぁと息を吐き出し、何か腑に落ちないといった表情で首を捻っている。
 いつものことだが、この幼馴染みの言うことはさっぱり意味がわからない。そういえばもう一人の新入生、キム・ユンシクといったか。あのチビは確かに女みたいな顔をしていたが、だからといってそんなのにまで反応していたら、まるで阿呆じゃないか。こっちの身だってもたない。

 酒瓶に口をつけようとしたジェシンの手を、またしてもヨンハが止める。

「もうやめとけ。これから講義だ」

 振り払おうとするが、意外にも強い力で阻まれた。

「忘れたか?今度落第したら退学だぞ」

 声の調子が変わった。見ると、ヨンハの目に彼らしからぬ強い光が宿っている。

「───そんなことはこの俺が、絶対に許さない」

 ジェシンは知っていた。こういうときのヨンハには、逆らっても無駄だ。腐れ縁とはいえ、十数年も付き合っていれば、そのくらいは学習する。

「……お前って」

 軽く口の端を上げて、ジェシンは言った。

「そういうマジな顔、ぜんっぜん似合わねぇ」

 ヨンハは掴んでいた手を離すと、ころりと表情を変え、「あ、やっぱりぃ?」と笑った。




**********************************************************
あまるですどうもこんにちわ。

こんなところでナンですが、拍手コメくださったRさま、ありがとうです(^^)
原作には原作の、ドラマにはドラマの楽しみ方があるっていうのが、ソンスのスバラシイところですよね!
むしろ変に原作どおりにしようっていう気負いが始めからないから、原作のファンにも受け入れられてるのかも。
日本の、特に漫画を原作にしたドラマなんかは、けっこう目も当てられない状態になってるやつが多々ありますが。(イケパラとかイケパラとかイケパラとか……)
花男は、まあ許してやろう。類が男前だから←(何様)




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2011/10/03 Mon. 13:07 [edit]

category: 第四話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第四話 2 初めての講義 

「論語の時間でーす!」
 
 けたたましい鐘の音と共に、斎直の幼い声が授業の開始を告げる。
 揃いの青い儒生服に身を包んだ儒生たちが写本を手に足早に明倫堂へと向かう、いつもの成均館の風景である。

「おい、手に入れたか?」

 ヘウォンが、常に困っているような下がり眉を更に情けない風情に下げて、ドヒョンとウタクに訊ねた。

「何をだ?」
「チョッポだよ、チョッポ!」
「族譜〈チョッポ〉といえば、僕は先祖代々の名家で……」

 と、人差し指を立て、例の如く自慢話を始めようとしたウタクを遮り、ヘウォンは言った。

「そうじゃなくて!過去問だよ、論語の!」
「あるわきゃないだろう。論語の教官は新しく赴任された方らしいし」

 新入生とはいえ、流石に年の功とでもいうのか、ドヒョンはやけに学内の事情に詳しい。

「採点傾向だけでも、情報は無いのか?」
「さあな。情報っていや、もともとは弘文館にいたお偉いさんだそうだが……」

 手で喉元を切る仕草をして、ドヒョンが声を潜めた。

「クビになったらしい」
「クビ?なんで?」
「不正を働いたか、賄賂の収受か。とにかく金に目が無いって話だ」

 そんなのが論語の講義を?
 互いの顔を見合わせたウタクとヘウォンに、ドヒョンはもっともらしく眉間に皺を寄せ、首を振った。


 明倫堂へと向かうユニの傍らを、先輩儒生たちがばたばたと慌ただしく駆け抜けてゆく。うっかり朝報に見入っているうちに思いのほか時間が経ってしまっていたらしい。慌てて明倫堂の前庭に駆け込んだユニは、反対側の門から、のんびりと儒巾の紐を結びながらこちらへ歩いてくるジェシンの姿を見た。
 竹箒で庭を掃いていた書吏の一人が、驚いた声を上げる。

「これは珍しい。コロさんが授業に出るとは。一体誰が改心させたんですか?」

 じろり、と書吏を睨みつけて黙らせてから、ジェシンはむっつり顔のまま明倫堂の敷石に足を掛けた。すぐ横にいたユニは、ふと彼と目が合い、軽く会釈して先を譲った。ジェシンはさっさと扉を開けて中に入っていく。後に続こうとしたユニだったが、扉は無情にもバタンと閉じられ、危うく鼻をぶつけるところだった。

 気を取り直し、そっと扉を手で押し開ける。その内側に見えた光景に、ユニは目を瞠った。

 文机の前に、ひしめき合うようにしてずらりと並んでいる、儒生たちの背中。彼等の視線の先には、白い鶴撃衣に身を包んだ博士が、静かに目を閉じて座っている。
 両班の子弟たちには、学堂という学び舎があり、そこで様々な事柄を論じ、学び、人脈を広げ、将来の出仕に備えている。誰でも知っていることだが、貧しい南人の、しかも女の身であるユニには、ぼんやりと想像するだけのおよそ縁の無い世界の話だった。だから、学舎の頂点とも言える成均館で実際にその光景を目の当たりにしたときの感動は、ちょっとしたものだった。今日からこの中に混じって学ぶのだと思うと、自分の立場はとりあえず忘れて、わくわくするような高揚感が湧き上がってくる───がしかし。

 ユニのその高揚感も、どこに座ろうかと目を泳がせるうちに、たちまち萎んでいった。
 なんということか、空いている席といえば、たった今入ってきてどかりと腰を下ろしたジェシンか、あのイ・ソンジュンの隣しかない。どうやらこの二人と少しでも距離を置きたいと思っているのはユニだけではないらしかった。

 ああ、どうして紅壁書の記事なんかに気をとられてぐずぐずしてしまったんだろう。もっと早く来て席取りをしておくべきだったのに。
 暴れ馬といけ好かない原則男。ユニにとっては究極の選択だったが、つい先程の尊経閣でのやり取りを思うと、ソンジュンのすぐ隣で講義を受けるのはやはり気まずい。コロ先輩の横に、と一歩足を踏み入れたユニだったが。

「なんと、万年学生はどうやらお出ましになっただけでお疲れのようだな」

 席を二人分占領していきなりごろりと横になったジェシンに向かい、博士が笑みを漏らした。あんぐりと口を開けて戸口につっ立っているユニに気づき、手招きする。

「君、早く座りなさい。その席が空いているから」

 ソンジュンが振り向いて、無表情にユニを見る。結局、ユニは仕方なくその隣に腰を下ろしたのだった。

「今学期、諸君の論語の講義を受け持つことになった、チョン・ヤギョンだ」
「先生、まずは成績の評価基準を教えてください」

 いきなりそう質問したのはウタクだ。隣でヘウォンが「初日からいきなり訊くなよ」と袖をひっぱっているのが見えたが、彼は素知らぬ顔だ。
 チョン博士はゆっくり席を立つと、傍らに置いていた一抱え程もある尿瓶(おそらく新しいものだとは思うが)を持ち、ウタクの文机の上にごとんと置いた。

「そうだな。講義をする上でまず大事なのはそこだ。私の講義では不可5つで落第。この成均館では落第3回で追放と同時に、青衿録から名を抹消される。それは皆、よく知っているだろう。───そこで用意したのがこれだ」

 と、白い壷をぽんと叩く。

「諸君の誠意を、是非とも見せて欲しい。成績に反映させよう」

 なんてことを、とユニが思ったのは強欲なチョン博士に対してというよりも、隣の原則男の反応を心配してのことだった。これまでの言動からして、こういうことを彼はもっとも嫌うだろうと思ったのだ。

 そっと伺うと、案の定、ソンジュンは唇を固く引き結び、膝の上で拳を握り締めている。激しい怒りを押し込めているのが、傍目にもわかった。
 前から順に回ってくる尿瓶に、儒生たちはそれぞれ懐から金品を取り出し、投げ入れていく。ユニの席に回ってきた時には、壷はかなりの重さになっていた。よくもまあ、こんなに金目の物を持ち歩いているものだとユニは感心して、ちらりと隣のソンジュンを見た。彼は相変わらず、ピリピリした空気を纏い、微動だにせずにそこに座っている。ユニは肩をすくめ、壷を後ろへ回した。ソンジュンとは違い、事の是非に関係なく、心付けになるものなど何も持っていないのだから仕方ない。

「実に感動的だ」

 儒生たちの間をひと通り廻って戻ってきた壷に、チョン博士は感嘆の息を漏らした。

「ある者にはこれが小便壷に見え、またある者には器にも見える。───ま、帽子には見えまいが」

 寒い冗談だとユニは思ったが、儒生たちからは笑いが上がった。

「さて、私の目にはこれがどう見えるかと言うと───まさしく宝の壷だ」

 言うなり、博士は目を閉じ、ゆっくりと両手を壷にかざした。何やら呪い師のような仕草で手のひらを往復させたかと思うと、壷の中に片手を突っ込み、さっと引き抜いた。その瞬間、儒生たちの目に派手な黄緑色が飛び込んできた。ほお、とどよめきが上がる。
 いったいどういう仕掛けなのか、博士が手を引き抜くたび、次々と色鮮やかな布が宙を舞った。
 ひとしきり布を出してしまうと、博士はおもむろに耳元に手をやり、取り出した“何か”を壷に入れた。ぽん、と軽い音がして、壷から一瞬炎が上がった。儒生たちからぱちぱちと拍手が上がる。博士は壷に本で蓋をして炎を消すと、また殊更に神妙な顔つきで片手を壷に差し入れた。やがてにっこり笑って取り出したのは、焼き菓子だ。 ぽーんと儒生たちに投げてやると、彼らは歓声を上げて取り合った。

「さてさて………次は何だったかな」

 儒生たちの盛大な拍手に応えながら、博士が袂から狭書らしきものを取り出した時だった。

「もう結構です」

 張り詰めた声が、和やかだったその場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
 やっぱり始まった、とユニは諦め顔で天を仰ぐ。儒生たちの視線が、一斉にソンジュン一人に集中した。だがそれで怯むはずもなく、彼は続ける。

「今は論語の時間です」
「なんと………。いくら私が愚か者でも、それくらいは心得ている」
「ではなぜ、西方の奇術など披露され、我々の貴重な時間を奪われるのですか」

 おや、とチョン博士が眉を上げ、「つまらなかったかな?」と残念そうな顔をした。堂々と心付けを要求するのには呆れたが、不思議と憎めない人だとユニは思った。

「いえ、面白かったです。とても、楽しかったし」

 思わずユニが言うと、他の儒生たちも次々と賛同の声を上げた。

「それはよかった。礼を言うぞ」

 チョン博士は満足気に、にっこりと笑った。だがソンジュンは矛を収めない。恐らくは相当頭にきているのだ。彼の性格を考えれば無理もないことだが。

「先生にとって重要なのは実学であり、経学や古典は必要ないと仰りたいのですか」
「まさか。君の言うとおり、今は『論語』の時間だ」

 言うなりチョン博士は立ち上がると、目の前の壷を持ち上げ、床に叩きつけた。壷は派手な音をたてて粉々に砕け、白い破片が辺りに散らばった。儒生たちが入れたはずの“心付け”は、跡形もなく消え失せていた。
 僕の指輪が、とウタクが小さく声を上げる。
 チョン博士は儒生たちの前を歩きながら、続けた。

「論語の為政には、“君子は器ならず”とある。君子は、型にはまった器ではない。真理を追求するなら、偏見にとらわれず自由でなくてはならない───そういうことだ。奇術を見ても何も学ぶことは無いという偏見、私が実学に傾倒しているからといって、古典嫌いと決めつける無知。全く以て、勇敢なことだ」

 冷笑にも似たものを浮かべて、博士はソンジュンを見た。珍しく言葉を失い、ソンジュンは黙って目を伏せた。

「論語学而より。“学べば則ち固ならず”浅い知識は思考の幅を狭め、人を頑なにする。学識を深め、柔軟な頭で真理を探求せよ。なぜなら諸君は、もう学舎の神童でもなければ、屋敷に引き篭っている本の虫でもない。国の金で学ぶ成均館の学生だからだ」

 博士の声に力が篭る。いつの間にか、寝転がっていたはずのジェシンがちゃんと座っているのにユニは気づいた。片膝を立てた、講義にあるまじき姿勢は相変わらずだが、興味深げに博士の話を聞いているのがその横顔でわかった。

「ここでの生活は民の血と汗で賄われている。学問に精進し、民に還元せよ。民のより良い暮らし、国の未来を夢見ろ。食わせてもらっている分は、働け。それが、君たちの義務だ」

 民の暮らしが楽になること、国の明るい未来。それはまさしく、ユニの夢だ。だが夢はあくまで夢であって、現実ではない。
 厳しい日々の暮らしの中では、夢を見てはいけないと思っていた。夢を抱けば、今の現実が余計に辛く、悲しくなる。失望が大きくなるのが嫌で、ユニは夢を見ることを自ら禁じたのだ。

 だがチョン博士は、夢見ることが義務だと言う。
 民の血と汗で学ぶ自分たちの義務だと。
 いずれはこの国を牽引していく者たちが集う場所、成均館。ここで、夢を育まずしてどうして朝鮮に未来があるのだと。

「今日の成績を発表する」

 席に着いたチョン博士は、静かに口を開いた。

「キム・ウタク、不可。ペ・ヘウォン、不可。アン・ドヒョン、不可」

 名前を呼ばれた者は、全滅だった。皆、がっくりと肩を落とす。あの粉々になった小便壷に大金を投げ込んだ者は尚更だろう。

「キム・ユンシク、不可。ムン・ジェシン、不可。イ・ソンジュン」

 やや間を置いて、博士は言った。

「───可」

 途端に、ざわつく儒生たち。なんであいつが、とあちこちで不満の声が上がる。それはそうだろう。心付けは出さない、講義は批判する。そんな学生は普通、師匠の不評を買うのが当たり前だ。

「あの、先生」

 ユニはさっと手を挙げ、尋ねた。

「授業内容を批判した学生に“可”を与える理由を教えてください」
「まさしくそれだ。講義内容をただ一人批判した。知恵は答えではなく、問いの中にある」

 博士は床に散らばっている壷の残骸から破片を一つ拾い上げ、儒生たちに掲げて見せた。

「先程見せた壷は最早存在しない。師とは同じく、取るに足らぬ存在だ。だが、自ら問う者は自ら答えを得る。それが、イ・ソンジュンが“可”である理由だ。───“論語”とは何だ?キム・ユンシク」

 唐突な質問にユニは戸惑ったが、すぐに答えた。

「孔子の語録です」
「さよう。クソ真面目な老人とその利口な弟子たちが集まり、この世のありかたを論じ合った記録だ。批判は大いに結構。我々も存分に論じ合おう。───以上だ」

 すっと席を立ち、チョン博士は明倫堂を後にした。静まり返っていた室内に、ざわめきが戻ってくる。ユニは大きく息を吐き、論語の写本を閉じた。
 奇術を使うのには驚かされたが、講義にはいつの間にか惹き込まれていた。家で一人で本を読むだけではどうしても限界がある。自分の答えが正しいのか間違っているのかわからないし、他の答えがあったとしてもそれを知り、検証する術がない。だがここには、国家を代表する頭脳と、優れた師と、あらゆる文献がある。自分が隅から隅まで読み込んだと思っていた論語なんて、おそらくはまだまだほんのとっかかりに過ぎないのだ。そう考えると、なんだか楽しくなってきた。
 
 写本を胸に抱え、席を立とうとすると、ヘウォンとウタクが何やら険悪な表情で近づいて来た。どうやら目当ては隣のソンジュンらしい。

「見事なもんだな、イ・ソンジュン。親の七光りってのはほんと、大したもんだ」

 ヘウォンが菓子を頬張りながら、ソンジュンを見下ろして言う。干菓子の欠片が、ぱらぱらと粉になって文机に落ちてくるのに、ユニは顔をしかめた。

「どういう意味だ?」

 ヘウォンを見上げ、ソンジュンが問い返す。ウタクが代わりに答えた。

「今日の成績が実力だとでも思ってるのか?」
「どうやってチョン博士を買収したんだ?ああ、わかったぞ。弘文館への復帰が条件だろ。なら無理もないな」

 すっくと、ソンジュンが立ち上がった。

「親の七光りと言ったか?」

 ソンジュンの目が、ヘウォンを鋭く見返した。ユニは咄嗟に理解した。ヘウォンはおそらく、ソンジュンに一番言ってはならない言葉を口にしてしまったのだ。常に冷静なソンジュンの手が、怒りのためか彼らしくもなく微かに震えているのがわかった。

「是が非でも使うべきだったな。そうすれば、君たちのようなつまらない輩のために国に無駄遣いさせることもなかったのに」

 ヘウォンが、ソンジュンの胸ぐらを掴んだ。

「何だと?こいつ、言わせておけば!」
「やめてください!」

 こんなところで殴り合いをされてはたまらない。ユニは慌てて止めに入った。

「おいおい、儒生同士の喧嘩は5点減点だぞ」

 ドヒョンが写本で肩を叩きながら、のんびりと歩いてきて言った。

「構うもんか!こいつも道連れにできるなら喜んで減点されてやらァ!」

 ヘウォンが怒鳴ったその時、ヒュウっ、と口笛の音が聞こえた。成均館の暴れ馬、ムン・ジェシンが、乾いた視線を投げながら ふらりと横切っていく。その雰囲気に気圧されてか、ヘウォンはソンジュンの襟元からぱっと手を離した。
 ユニは密かに感心した。ジェシンが周囲に与える威圧感は並ではない。それはまさしく恐怖政治だ。彼の力を恐れるあまり、小さないざこざは大火となる前に鎮火してしまう。

「運が良かったと思えよ」とヘウォンは悔し紛れの台詞を吐いたが、この場合運が良かったのはソンジュンよりヘウォンの方だろう、と、彼の鮮やかな足蹴りを知るユニは思った。

「よし!じゃあこの続きは場所を移してやろう。俺たちピカピカの新入生だけで、爆弾酒でも飲みながらゆっくりしようじゃないか。なぁ?」

 ドヒョンがその場を繕うように、明るく言った。渋々といった表情ではあるが、ヘウォンとウタクも同意する。ドヒョンはソンジュンに「お前も一緒にどうだ?」と笑いかけた。が、ソンジュンはぴしゃりと言った。

「遠慮しておきます。白黒つけずに、適当に酒で胡麻化すやり方は大嫌いですので」

 まさかそこまできっぱり断られるとは思ってなかったのだろう。ドヒョンは呆気にとられて、2、3度瞬きすると、ごほんと咳払いをして「なら結構」と言い捨てた。

「まったく、こっちが下手にでりゃあ………いけ好かない奴だ」

 聞こえよがしに言うヘウォンにも、ソンジュンは表情一つ変えない。襟元を整えて座り直すと、明日の講義の写本をめくり始める。

「おい、テムル」

 がしっ、とドヒョンの太い腕が首に巻き付いてきて、ユニはぐぇ、と妙な声を上げた。

「当然、お前は来るよなぁ?」
「え?いや、ぼくは」
「お前だってあいつにはうんざりだろ?奴の悪口を肴に、景気よく飲もうぜ」

 首を締められてろくに返事もできないまま、ドヒョンに引き摺られるようにしてユニは明倫堂を出た。ソンジュンはたった一度だけユニに視線を向けたが、またすぐに書物に目を落とした。




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2011/11/07 Mon. 00:15 [edit]

category: 第四話

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第四話 3 酒宴 

 自分の心に正直に生きよ。
 正しき道を行け。

 幼い頃から、父にそう教えられてきた。
 これまでその教えに、一片の疑いも抱いたことはない。それは多分これからも同じだ。

 だが何故だろう。
 自分はその教えに従って行動しているだけなのに、周囲からは理解されない。
 いけ好かない奴、人の気持ちがわからない奴。融通の利かない奴。
 人はそんな風に評価し、敬遠する。

 知ったことか、とソンジュンは『論語』の頁を閉じ、席を立った。
 話す価値もない人間に敬遠されたからといって、自分に何の不利益があるというのか。
 そんな奴は、むしろ近づいて来ない方が好都合じゃないか。
 どうして自分から、自分の信念を曲げてまで、そんな奴の機嫌をとらなきゃならない?

 明倫堂を出ると、陽は既に傾きかけていた。日中のうだるような暑さは少しは緩んでいたが、地中から立ち上るこの湿気には辟易させられる。
 ソンジュンは額に浮かぶ汗を軽く拭い、尊経閣に向かう門へと足を速めた。明日の『論語』の講義のため、別の解釈本を確認しておく必要があると思ったからだ。
 チョン博士はなかなか手強い相手だ。迂闊なことを言おうものなら、どんな論理を展開して反撃されるかわからない。
 負けるわけにはいかなかった。特にああいう、金に執着する汚い人間には。

「おい、老論」

 大銀杏の前まで来たところで、いきなり、そんな声がした。
 この呼ばれ方には覚えがあった。思わず足を止めて辺りを見回したが、構内を行き交う儒生たちの中にその姿はない。ふと見上げると、大銀杏の上、二股に分かれた太い幹の中腹から、ムン・ジェシンがこちらを見下ろしていた。
 ジェシンは木の幹に手を掛けると、まるで体重を感じさせない動きで、ソンジュンの目の前に降り立った。
 多少なりとも武道の心得がある者には分かる。彼は、その方面に関してはおそらく達人の域に達している。
 儒生たちが彼を桀騖と呼んで恐れるのは、その目つきや態度だけによるものではないということを、ソンジュンは改めて悟った。

「どっちかにしとけ」

 ジェシンは唐突に、そう言った。

「人間らしくするのか、老論らしくするのか。はっきり決めろ」
「仰る意味が分かりませんが」

 ジェシンは説明するのが面倒だとでも言いたげに息を吐いた。

「新入生はみんな、飲みに行ったんだろ」
「意味もなくつるむのは時間の無駄です」
「じゃあなんでお前は、成均館に来たんだ?」
「当然、学問のために………」

 ジェシンは 学問ねぇ、と言って薄く笑った。

「嘘ばっか言ってっと、癖になるぞ」

 嘘?
 ソンジュンは自らに問うた。成均館に来た本当の理由。
 学問の探求、父の希望、王命、大科の受験資格。比重はともかくとして、どれも本当だ。最後に一つ、何故かキム・ユンシクの顔が浮かんだが、彼はそれ以上深く考えなかった。

「お前んち、金持ちだろ?なら、家庭教師を雇えばいい。頭が良いってんなら、本だけ読んでりゃ十分だ。だがここは違う。成均館ってとこはな、青臭ぇガキどもがつるんで時間を無駄にする場所だ。だがな、意味もなくやってるわけじゃない。お高くとまってる奴なんか、ここにいる必要はねぇ」

 吐き捨てるようにそう言って、ジェシンはソンジュンに背を向けた。立ち去ろうとするその背中に向かい、ソンジュンは言った。

「そう言う先輩も、ここに馴染んでいるとは思えませんが」

 ジェシンはバレたか、と言って小さく笑ったようだった。

「俺は別に、いつここを辞めても構わねぇからな。けど、お前は違うだろ」

 振り返ったジェシンの目が、ソンジュンを捉える。

「大科の受験資格。それに、将来に備えて人脈作りも必要だ。それが、お前がここに来た目的じゃねぇのか?」

 ジェシンは凄むようにソンジュンに近づき、言った。

「なら覚えとけ。結局お前は、お前が毛嫌いしてる老論の息子連中と何も変わらねぇんだよ。だから、二度と俺の前で党派を無くせだの何だの、ふざけたことを抜かすな。さっぱり分からねぇんだよ、俺みたいなバカにはな」

 はだけた儒生服の裾を翻し、ジェシンは東斎の方へと歩いて行く。そのゆらゆらとした背中を、ソンジュンはただ黙って見送るばかりだった。


*   *   *


「お……会い、したい……ソンジュン……様へ」

 眉間に皺を寄せながら、手紙をしたためているのは兵曹判書の娘、ハ・ヒョウン。慣れないことをやっているせいか、墨を摺り始めたのはもう三刻も前なのに、未だ冒頭の宛名の部分を書いている。

「ああダメ。こんなのありきたりだわ!」

 ヒョウンはくしゃくしゃと紙を丸めると、ぽいと放った。床に無数に転がる紙玉が、また一つ増えた。そのうちこの紙玉で床が見えなくなるんじゃないかと、下女のポドゥルは真剣に心配した。お嬢様は書いて放るだけだが、片付けるのは自分だ。この紙玉の山を集めて竈まで持っていくのに、一体何人の下男を呼びつける必要があるだろうと、彼女はさっきからそればかり考えている。

「お慕い……する……ソンジュン……様へ」

 筆を滑らせるヒョウンの口角が、にんまりと上がっている。今度こそ本文に突入するかと思いきや、

「あーもおっ!これじゃああからさま過ぎるっつーの!」

 ヒョウンは遂に筆を放り出し、ごろんと横になった。どうやら恋文の書き出しだけで、彼女の頭と体力は限界を超えたらしい。おいたわしいお嬢様………。ポドゥルははっとして、声を上げた。

「お嬢様、大変です!目元にシワが!」
「なんですって!」

 ヒョウンは弾かれたように起き上がると、傍らにあった手鏡を掴んで覗き込んだ。

「いやあァァァ!なんてことなの!一気に五歳は老けちゃってるじゃない!ねぇあたし、二十歳過ぎて見える?ねぇ!」

 ポドゥルは黙って、主人から目を逸した。彼女は嘘がつけない性分なのだ。
 ヒョウンが人の顔色やその場の空気に鈍感なのはポドゥルにとって幸いだった。思っていることをそのまま言葉にしない限り、女主人が傷つくことはない。

「ねぇ、ポドゥル」

 ぱちぱちと大きな目を瞬かせて、ヒョウンはポドゥルの顔を覗き込んだ。何かろくでもないことを思いついた時の彼女の癖だ。

 ポドゥルの背に悪寒が走った。


*   *   *

 
 儒巾の縁に細長く千切った紙を挟み、教官の頭巾に見立てて、ドヒョンはしかめつらしく辺りを見渡した。

「さて、この時間は………」
「酒学です、先生」

 すかさず、ウタクが答える。

「うむ。では爆弾酒の作り方を説明しよう」
「もう結構です!」

 ソンジュンの口真似をして、ヘウォンが言った。びしりとドヒョンがその頭をはたく。

「イ・ソンジュン、不可!」

 ぷっ、とユニは吹き出した。ソンジュンには悪いが、真面目腐ったドヒョンの顔が可笑しくてしょうがない。
 
 ユニはドヒョンら三人組に連れられて、泮村のとある酒房に来ていた。そこは、成均館の儒生たちがよく集まる店らしく、壁の格子には彼らが戯れに書いた落書の類が無数に結び付けられていた。

 ワハハハ、と高らかな笑い声を上げて、「つまらなかったかな?」とドヒョンが言う。「はい!とっても!」と異口同音に答えたウタクとヘウォンに、ユニはまた笑った。

「では、お次はこれだ」

 ドヒョンはチョン博士の仕草を真似て(彼はとことん教官のフリをするのが好きらしい)酒瓶に耳の後ろから取り出した“何か”を投げ入れる。

「見よ!爆弾酒の達人、アン・ドヒョンの必殺技!これぞ、珍島〈チンド〉の紅酒だ!」

 積み重ねたマッコリの盃に、鮮やかな紅色の酒がゆっくりと注がれてゆく。流れ落ちる先から、綺麗な薄桃色に染まってゆく白濁酒を見ながら、ユニはぱちぱちと手を叩いた。この雰囲気がそうさせるのか、まだ酒も入っていないのに、もう酔っぱらっているような気分だ。

「さあ、最初の一杯は一気飲みが決まりだ!気張って行け!」

 どん、と盃を目の前に置かれ、ユニは思わず聞き返した。

「一気飲み?ぼくも?」

 ドヒョンは当たり前だとでも言いたげに顎をしゃくった。それを合図に、ウタクが盃に口をつける。意外にも豪快な呑みっぷりで、彼は瞬く間に盃を空にした。

「キム・ウタク、可!」

 よっしゃあ、と儒生たちから歓声が上がる。次はヘウォンだ。待ってましたとばかりに盃を取ったヘウォンは、これまた水でも流し込むかのような勢いで杯を空ける。

「ペ・ヘウォン、可!」

 いいぞぉ!と益々盛り上がる儒生たち。目を丸くして二人の呑みっぷりを見ていたユニに、ドヒョンが重々しく言った。

「キム・ユンシクよ。成均館に伝わる伝説を知っておるか?」
「伝説?」

 そうとも、とドヒョンは天を仰いだ。

「同期の酒席で一気飲みを断った者は、いずれ必ず、成均館を追われるばかりか、青衿録から永遠にその名を抹消されるという、悲しくも恐ろしい伝説だ」

 こうまで言われては飲まないわけにはいかない。ユニは慌てて盃を手に取り、無理やり流し込んだ。

「───ぷはっ!」

 どうにか飲み干し、酒盃が空になった証拠に頭の上でひっくり返す。

「キム・ユンシク、可!」

 儒生たちから拍手喝采を受け、ユニは弾けるように笑った。
 書写を請け負った先で酒を勧められることはよくあったから、このマッコリも初めて飲んだというわけではない。だがそんな場所では遠慮もあって、せいぜい舐める程度にしか飲んだことはなかった。

 これが、仲間と飲む酒というものなのだろうか。口にした酒が美味しいほど、この時間が楽しいほど、ユニは少しだけ心が痛んだ。それはきっと、心の隅にいる弟のせい。

 本物の、キム・ユンシク。

 本当なら今、こんな風にして彼らと大騒ぎしているのは、弟のユンシクだったはずだ。彼が経験するはずだったものを、まるで自分が横取りしているようで、ユニは悲しくなるのだ。

「若様、若様!」

 ユニが勧められるままに犢川産の生ダコを口に押し込んでいたときだ。貰冊房の主人、ファンが、店の戸口から顔を覗かせて、こちらに向かって手招きしている。ユニは驚いて、危うくタコをそのまま丸呑みするところだった。




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2011/11/07 Mon. 23:10 [edit]

category: 第四話

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第四話 4 壁 

「あんなところまで来られちゃ困るよ」

 貰冊房の二階。酒房からここまでは大した距離はないとはいえ、急かされたので軽く酔いが回ってしまったユニは、眉間に皺を寄せてファンを睨んだ。

「お忘れですか?前金はたっぷり支払ってるはずです」

 商人魂とでもいうのか、ファンはこういうことには容赦ない。相手が飲み会の最中だろうが何だろうが、全く意に介さないのだ。たとえ親の葬式の時でも、仕事とあらば墓穴の横でも筆を握らせかねない。

「書いていただきたいのは恋文です。といっても、ありふれた内容では困ります。会いたい気持ちを伝えつつ、だからと言ってあらかさまなのもダメで………つまりえーっと………」

 その後を引き継いで、ユニは言った。

「つまり、その男を好きでたまらないが、気付かれたくないってこと?」

 ファンが頷く。だったらなんで恋文なんか出すんだろうとユニは思ったが、それが女心とかいうものなのだろう。長いこと男の格好をしているせいか、ユニにはさっぱり理解できないが。

「まあ、やってみるよ」

 そう言って引き返そうとしたとき、書架の影から一人の女が恐る恐るといった感じで顔を出した。

「あの、学士様の中に、イ・ソンジュン様はいらっしゃいませんか?」
「彼に何の用?」
「それはその………シ、シ………“シンゲンショハン”?」

 ユニが首を捻る。女は急に焦り始めて、つっかえながら言った。

「だ、だからあの、か、漢字で書くと、身体の身に、言語の言、書物の書とそれからハンは………あらやだ、なんだっけ」
「『板』よ!板書の『板』!」

 女とはまた別の声が、書架の影から聞こえた。よくよく見ると積み重ねた書物の隙間から、鮮やかな萌黄色の長衣が見え隠れしている。どうやら女の主人らしい。本当の依頼主はこっちか、とユニは納得した。

「あ、ああ、つまりその、とにかく、立派な方だと噂に聞きましたので」
「確かに、身言書“判”が揃った男かもね。あまりに立派すぎて、彼はああいう場所には来ないんだ。残念だけど」

 ユニが言うと、女はがっかりしたように眉尻を下げて、主人の方を見た。
 イ・ソンジュンを一人の花婿候補として見るなら、確かに完璧だろうとは思う。家柄は申し分ないし、容姿も立派、成績優秀の出世頭。言葉遣いも態度も礼節を守っていて一分の隙もない。けれど人間、それだけじゃ駄目なんだと彼を見ているとつくづく感じる。あんなのと一緒にいたら、きっと周りの人間は苦労させられるだろう。

 さて、どう書いたものか。

 恋文は、ユニの一番苦手とする仕事だ。しかも今回の依頼はややこしい注文がついている上に、相手はあのイ・ソンジュンときている。難易度で言えば科挙の答案の比ではない。
 貰冊房を出、酒房へと戻る道すがら、書き出しの部分を彼女は早くも思案し始めた。



※身言書判………官吏登用の人物試験の四つの規準。容姿・言葉遣い・筆跡・文章のこと。



 *   *   *


 尊経閣はいつにも増して静かだった。今夜は先輩儒生たちだけでなく、新入生たちもほとんどが出払っているせいだ。
 しんとしたその室内の一角で、論語の頁を捲っていたソンジュンの手が、ふと止まった。

『結局お前は、お前が毛嫌いしてる老論の息子連中と何も変わらねぇんだよ』

 ここに来る前、ジェシンに言われた言葉が頭から離れない。

 党派に拘っていては、人材も、思想も、偏っていびつになっていくばかりだ。孔子が弟子たちと論じ合い、国のあり方を追求していったように、異なる考え方や価値観を持つ者たちが意見を持ち寄ってこそ、最良のものを生み出すことができるはず。その考えは、以前からずっと変わりはしない。

 だが結局のところ、自分の周囲に壁を巡らして、相容れない者を排除しているのは同じということか。ただそれが、党派という名の壁ではないというだけで───。

 ソンジュンは、ぱたりと本を閉じ、その表紙をじっと見つめた。まるでそこに、孔子の答えが書いてあるかのように。
 
 やがて彼は、席を立った。


*   *   *

 ユニが戻った頃には、儒生たちのほとんどはすっかり酔いつぶれ、酒席にはひとしきり騒いだ後の気怠さだけが残っていた。ヘウォンは片膝を立て、空になった皿を箸でしきりに突付いている。

「つまりだ、俺たちは成均館にいる間、イ・ソンジュンの引き立て役ってわけだ。ったく、ムカつくったらありゃしねぇ」

 こちらもかなり酔いが回っているらしく、ろれつの回らない舌でくだを巻く。

「成均館だけじゃないさ。出仕することになったって、ずーっと同じ。なんせあいつは一番の出世頭だからな。美味しいところはみんな、あいつに持ってかれちまうのさ」

 ウタクが自嘲気味に言った。珍しくいつもの自慢話はすっかりなりを潜めている。
ドヒョンが、茶碗になみなみと酒を注ぎながら言った。

「若造のくせに、年上の者に対する礼儀もなきゃ、愛想もない」
「そうそう。今日だって結局は、父親の話を持ち出しただろ」
「“親の七光りと言ったか?是非とも使うべきだったな”」

 乾いた笑い声が、酒房の淀んだ空気の中に漂って、消えた。

「おい、お前も何か言ってやれ、テムル!」

 丁度飲み干した盃を、ユニは卓子に叩きつける勢いで置いた。

「───卑怯者」

 ぽつりと呟いたユニに、3人が「そうだ!」と賛同の杯を掲げる。

「ほんっとに情けない」
「いいぞぉ!」
「なんてみみっちいんだ」
「まったくだ!」
「あんたたちのことだよ!」

ぴたりと、男たちが動きを止め、ユニを見た。

「少なくともイ・ソンジュンは、こんな真似はしない。大の男が揃いも揃って陰口なんて。恥ずかしくないの?!成績に不満があるなら、先生に言えよ。いや、ぼくなら真っ先に尊経閣に行くね。イ・ソンジュンだろうが、チョン博士だろうが、実力で打ち負かしてやる。それが男ってもんだろ」

 なんだよぅ、と、ヘウォンが不満気に口を尖らせた。

「お前だって、奴のこと嫌ってたろ?」
「そうだよ!あんたたちが想像もつかないくらい、あいつが大っ嫌いだ!………だけど」

 ユニは小さく首を振って、言った。

「だけど、こういうのは良くない。今日のあいつは、何も間違ったことは言ってなかった。ほんとはみんなだって、分かってるはずだろ?」

 ユニの言葉に、ヘウォンとウタクは急に潮垂れて、卓子の上に目を落とした。
 そう、誰も本気で思ってやしないのだ。ソンジュンが博士に官職をちらつかせて、あの講義で可を貰ったなどとは。
 講義の最中に堂々と心付けを要求するチョン博士を、あのバカ正直とクソ真面目が服を着て二足歩行しているようなソンジュンが許せるはずもないのはよくわかっているのに、絡まずにはいられない。そんな彼らの気持ちは、ユニにもなんとなく理解できる。
 彼らは、妬ましくてしょうがないのだ。イ・ソンジュンという男が、あまりにも完璧すぎて。
 自分にないものを、すべて手にしているように思えて。

 完璧な人間なんて、いやしないのに。

 それは、当のイ・ソンジュンを見ているとよくわかる。今日だってそうだ。
いつもいつも、あの王の前でさえ、憎らしい程冷静な態度を崩さないイ・ソンジュンという男が、珍しく怒気を露わにしていた。
 『親の七光り』。
 ヘウォンにそう言われたことが、彼にとっては相当な屈辱だったということは容易に想像がつく。

 もしかしたら彼は、誰も知らないところで、物凄く努力をしているのかもしれない。この世の誰にも、自分に向かってそう言わせないための努力を。

「いや、流石にユンシクは懐が深い!大物〈テムル〉の名に恥じんな!さあ、そんなしょげた顔しとらんで、今夜は思い切り飲もう!」

 しんみりとしてしまった場を盛り上げようと、ドヒョンが徳利を持ち上げる。ちょっと用を足しに、と外に出ていったウタクを見送って、三人はまた杯を重ねた。

 ユニが、追加で運ばれてきた肴に箸を伸ばそうとしたそのときである。
 ウタクが衣服の前を整えるのもそこそこに、転がるように部屋へと戻ってきて叫んだ。

「テ、テムル!大変だ!奴が、イ・ソンジュンが来てる!」

 ヘウォンが鼻で笑った。

「嘘つけ。酔って幻でも見たんだろ」
「本当だってば!信じてよ!ほんとに表にいるんだって!」
「───行ってくる」

 ユニは箸を置き、席を立った。


 外に出ると、風は生温かったが幾分気分はすっきりした。酒房のざわめきが、開け放った窓から漏れ聞こえては来るが、壁一枚隔てただけで、通りはまるで別世界のように静かだ。その片隅に、背の高い両班の青年が一人、こちらに背を向けてぽつんと立っていた。

「そんなとこに立ってないで、入ってくれば?」

 ユニが声を掛けると、彼は振り向きはしたものの、すぐに目を逸した。

 もしかして、気まずいとか………思ってる?

「酒で胡麻化すやり方は大嫌いだって、言ってなかったっけ?」

 少しだけ意地悪をしてやりたくなって、そんなことを言ってみた。

「嫌いでも、団体行動として必要と判断すれば、参加する。それが僕の原則だ」

 相変わらず素直じゃない。まったくこの男は、とユニがしらっとした目で見上げると、ソンジュンは急に不貞腐れたような顔をして、言った。

「───だから来た」

 ぷっ、とユニは吹き出して、ソンジュンの手を取った。

「行こう、ほら!」





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2011/11/16 Wed. 17:13 [edit]

category: 第四話

thread: 二次創作:小説 - janre: 小説・文学

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第四話 5 帰途 

 一抱えほどもある器に、溢れるほどの酒が注がれた。儒生たちが「イッキ!イッキ!」と盛り上がる中、ぷんと匂い立つその白いマッコリをソンジュンは半ば呆然と見つめている。
 ドヒョンが芝居がかった表情で、言った。

「さあ、ぐっとやってくれ。君を待ち焦がれた我々の思いを酒に込めた」

 皆人が悪いなとは思ったが、これも仲間に溶け込むための、言わば試練だ。ユニはソンジュンの隣で囁いた。

「一杯目は一気飲みが決まりなんだ。ぼくらも全員飲まされた」

 ソンジュンは黙っているが、その顔からは血の気が失せてしまっている。そりゃあそうだろう。この品行方正なお坊ちゃんに、こんな大量の酒が飲めるわけがない。

「嫌なら別に無理しなくても………」

 ユニが酒の入った器に手を掛けた。その手首を、ソンジュンががしっと掴んで阻む。彼は無言のまま、まさに決死の表情で器を持ち上げ、口をつけた。

「お………おおお?」

 ドヒョンが、ソンジュンのごくりごくりと波打つ喉元を、目をぱちぱちさせながら見つめている。ヘウォンとウタクも同様だ。徐々に角度を増す器の底を、二人揃ってぽかんと口を開け、見守るばかりである。

 やがて、ダンッ、と、大きな音をたててソンジュンは巨大な盃を卓子に降ろした。すかさず、ドヒョンが盃をひっくり返し、空になったことを確かめる。

「イ・ソンジュン、可!」

 儒生たちの間から、わっ、と拍手が起こった。

「なんてやつだ、ほんとに全部飲みやがった」

 ヘウォンが呆れたように呟くのを、ユニはどこか愉快な気持ちで聞いた。あれだけの酒を、まるで自分が飲み干したような気分だ。ちらりと笑ってソンジュンを見上げた。彼は反対の方を向いて、小さくげっぷをした。


*   *   *


「お前もまだまだだなぁ、チョソン」

 新しく仕入れた春本をめくりながら、ヨンハが呟くように言った。脇息にもたれかかり、まるで自室のようにくつろいだ様子だが、そこは天下の名妓、チョソンの私室である。
 どれだけ金を積んでも入るのが難しいと言われるその場所に、こうして足を踏み入れることができる男はそうはいない。といっても彼がチョソンの客として、ましてや情夫としてここにいるわけではないのはお互い百も承知だ。

 女林〈ヨリム〉の名に恥じぬ女好きは自他共に認めるところだが、実は彼はああ見えて、周りに相当気を遣っているのではないかとチョソンは思う。

 父親が牡丹閣の運営資金を援助していることもあって、昔からここに出入りしているものだから、チョソンなどは彼を客として扱ったことがない。来れば適当な肴くらいは用意させるが、手厚いもてなしどころか、酒の酌すらしないこともある。だがヨンハはむしろそれが気に入っているようだった。

 自分になびかないとわかっているから、チョソンの前では世辞も言わない、笑わせる必要もない。今のように本(といってもほとんどが猥本だが)をめくりながら手酌で酒を呑み、彼女の伽耶琴の練習に付き合ったりもし、適当に時を過ごして帰っていく。大勢の友人たちを引き連れているときは派手な宴会で大金を落としてくれるが、彼が一人でここへ来るときは大抵そんな風だった。

「男に恥をかかせて、一体何の得がある?妙な意地を張らずに、行ってやれよ」

 障子の向こうを軽く顎でしゃくって、ヨンハは言った。
 今頃離れの客室では、エンエンとソムソムがハ・インスとその取り巻き連中に、チョソンが顔を出さない理由を汗をかきながら言い訳しているに違いない。

 いっそのこと得体の知れない伝染病に犯されて、ふた目と見られぬ顔になったとでも言ってくれればいいのに、とチョソンは思った。そうすれば、あの若様も少しは私から興味を失ってくれるかもしれない。

「相手は成均館の掌議で、兵曹判書の息子だぞ。そんなやつが、新榜礼の後すぐに会いに来たんだ。気持ちは分るだろ?」

 鏡の前で眉墨を引きながら、ヨンハの言葉を聞くともなしに聞いていたチョソンは、ふと振り返り、「ヨンハ様こそ、まだまだですね」と穏やかにやり返した。

「あなた様は私の気持ちを、よくご存知のはずでは?」

 ヨンハは本から顔を上げると、ふるふると首を振った。チョソンは飾り髪に挿した蝶の簪を直しながら、薄く微笑んだ。

「男が金や権力で買えるのは、女の一夜だけ。女心を掴む男は、たった一度の出会いでも、一生忘れられぬ余韻を残すもの………。私たち妓生にも、守りたい信義がございます」

 束の間、考えを巡らすように空〈くう〉を見つめたヨンハは、すぐにはっとして身を乗り出した。

「それはもしや、テムル………あ、いや、キム・ユンシクのことを言ってるのか?」

 言わぬは言うに勝るという。チョソンは敢えてヨンハの問いには答えず、ただ艶然と微笑み返した。

「今夜はもうお引取りください。お送りいたします」


 我ながら不思議だと思う。たった一度会ったきりの彼に、どうしてこうも強烈に惹きつけられてしまうのか。
 顔が綺麗だったから?兵判の手にかかる寸前だったのを、助けてもらったから?
 どちらも違う気がする。

 男たちの悪ふざけのために、女を辱めることはできないと言った。チョソンの下着を、恥ずべきものではないと言って、あの素晴らしい絵をさらりと描いた。
 彼の前にいた自分は、卑しい妓生でも、男の下僕である女でもなく、チョソンという一人の人間だった。それを発見したことは、チョソン自身にとっても、大きな驚きだった。

 表面的な美しさを褒めることはあっても、あんな風に、人としてチョソンに敬意を払ってくれた男が、これまで一人でもいただろうか?

 いったい彼は、どういう人なのだろう。
 彼のような人間がこの世にいることは、まるで奇跡だ。
 たとえ貧しくとも(彼の身なりは、決して贅沢なお坊ちゃんのものではなかった)れっきとした両班の家に生まれた人間が、たかが女、たかが妓生を自分と同等、いやそれ以上の存在のように扱うだなんて、そんな夢物語みたいなことを誰が信じる───?

 ヨンハを促し、回廊に出たチョソンは、胸の奥が急速に冷えていくのを感じた。
 鷹のような鋭い視線が、真っ直ぐに自分に突き刺さっている。
 この人と会うと、いつもこうだ。自分が何かの獲物にでもなったような、そんな気分になる。

 チョソンは形ばかりの笑みを口元に浮かべて、インスに軽く会釈した。すれ違いざま、ぐいと顎を掴まれた。

「いつまで私を拒んでいられるか見物だな。妓生の信義とやらと、私の力、どちらが強いか………面白い勝負になりそうだ」

 力、勝負。この人はやっぱりこうなのか。
 チョソンは哀れみのこもった目でインスを見上げた。かつては自分も、そうだった。
 力さえあれば。誰にも負けることのない力があれば。恐らくは父も、家族も失うことはなかった。ここでこうしてもいなかった。
 けれど、その力を望んだばかりに、自分自身をのっぴきならないところまで堕としてしまった。こんなはずではなかったと後悔しても、もう何もかもが遅すぎる。

 去っていくインスの後ろ姿を見つめながら、チョソンは心の中で呟いた。
 若様、早く貴方も気づいてください。貴方の力が、貴方自身を食い潰す前に、早く───。


*   *   *


「宮殿にぃ~上がったらぁ~牡丹閣を~買い取ってぇ~浴びるほどぉ~酒を呑みぃ~」

 成均館への帰り道。ドヒョンら3人組は道端で肩を組み、上機嫌でくるくる回っている。歌を歌っているようだが、歌詞も調子も適当なせいで、ただ怒鳴っているだけにしか聞こえない。

 くすくす笑いながら彼らの後ろを歩いていたユニの足が、ふいにもつれた。転びそうになった身体を、咄嗟にソンジュンが抱きとめる。
 どうも、と少しふらつく足でまた歩き始めたユニに向かい、ソンジュンが言った。

「新榜礼の………君の頼み事について、考えてみた」

 躊躇うような少しの間のあと。

「約束は守るよ。───西斎に移る」
「本気で言ってるの?」

 ソンジュンは前を向いたままだ。その横顔はいつも通りで、酒のせいで冗談を言っているようには見えない。

「さっきは………意外だった」
「何が?」
「声が大きいんだ、君たちは」

ああ、とユニは笑った。

「ぼくが、君の肩を持ったことか。聞いてたんだ」
「論語の成績に、不満があったんじゃないのか?」
「不満とか、そういうのじゃないよ。何が真実なのか知りたかっただけさ。先生の言う、学問とは何か、真理とは何なのか………すごくすごく、知りたかった。それだけ」

 通りに立ち並ぶ民家の屋根の間から、無数の星が瞬いているのが見える。それを見上げながら、独り言のようにユニは続けた。

「初めてだったんだ。生まれて初めてだった。あんな風に授業を受けるのも、先生に教えを乞うのも、誰かと、机を並べるのも。論語があんなに面白いものだってことも、初めて知ったよ。それってさ、よく考えてみれば………みんな君の、お陰だし。だから……」

 振り向いて、ソンジュンを見た。彼はいつの間にか歩くのを止め、ユニを見ていた。

「今日だけはその……礼を言いたいというか……えと……それで、考え直したんだ。西斎には、移らなくていいよ。せっかくの願い事を使うのは、もったいないしさ」

 ハ・インスは確かに怖い。目をつけられたら何をされるかわからないし、自分の正体がバレてしまう危険だってある。けれどきっと、ソンジュンに自分自身を曲げさせる程のことじゃない。
 あんな奴らに怯えて、感謝するべき人間の信念を捨てさせる?そんなことをしたら、ユニもドヒョンやヘウォンたちのことを言えなくなってしまう。

『───それが男ってもんだろ?』

 ユニにとってそれは、魔法の言葉だった。
 男の格好をすると、少しだけ勇気が出るのと同じだ。その言葉はまるで父親のように、自分をいつも正しい方向に導いてきたとユニは信じている。
 実際の男がどういうものかは、女であるユニにはわかるはずもない。だがこうして男の格好をしている以上、自分が男らしくないと思うことはやらないし、できない。
 ソンジュンの言葉を借りるなら、それがユニの原則だった。

 ふと見ると、ソンジュンがまるで今にも泣き出しそうな顔をしていた。彼らしくもなく頬を歪め、必死に歯を食いしばっている。

「あれ、そんなに感動する話だった?」

 少しばかり驚いて、ソンジュンの顔を覗き込んだ。彼は うっ、と唸って、くるりとユニに背を向けた。



「オエェェェェェ!」



 地面に向かって、盛大にゲロを吐いたソンジュンの背中を、ユニが慌てて支える。

「だ、大丈夫?!」

 時折苦しげに咳き込む背中を仕方なくさすってやりながら、ユニは弱りきって呟いた。

「やっぱりこいつ嫌いだ………」









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2011/11/24 Thu. 01:33 [edit]

category: 第四話

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2017-08
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